面白かったらカンパをよろしくお願いします!→ キンドル 池袋ファナティックロリータ
『池袋ファナティックロリータ』藤間紫苑
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柔らかいオレンジ色の夕陽が照らす中池袋公園。子供達が公園の遊具で遊び、明るい笑い声が公園を包んでいた。公園のベンチには保護者達が集まり、子供達を見守りながら井戸端会議に夢中になっている。毎日繰り返される、ありふれた午後の風景。
そんな公園の一角に、少女はいた。白いセーラーカラーに二本の明るい萌葱色のライン。皺のない漆黒のプリーツキュロットスカート。肩胛骨の下まで伸びた黒髪のツインテールは夕日を浴びてきらきらと輝いてる。学生鞄には天使の羽の形をした小さなぬいぐるみストラップが付いていた。
どこにでもいる育ちの良いお嬢さん。周りにいる大人達はそう受け止めていた。安全な”私達と同じ“幸せな一般市民のお子さんだと。だから誰も、少女の事を気に止めなかった。
だがその公園の中で、少女は独り、震えていた。
彼女は俯き、体をかたかたと細かく振るわせ、両手を組んでぺたぺたと冷や汗が出る掌を揉み続けた。冷たくなった体。異様なほど火照る頭。青ざめる唇。何度も何度も唾を飲み込んでいた。その度に頭にごくり、という不気味な音が響く。
少女は右腕で左肩をさすった。昨夜、母親に殴られた紫色の痣。何度も何度も、少女は母親に殴られた。最後には定規で殴られた。何故、出来ないのかと、少女を罵る母親の声が頭に木霊する。どうして私達の子供なのに、これ程、テストの点数が悪いのかと。そう言いながら殴る母親の声が、少女の頭から離れなかった。止めて、と言い返す事も、抵抗する事も、既に少女は諦めていた。抵抗すればする程、少女は母親に酷く殴られた。ある時は馬乗りになって殴られた。いつしか少女は抵抗する事を忘れてしまった。
肩が痛いと、感じる事すら少女には出来なかった。ただかたかたと震えながら、左肩をさすっていた。鞄の中には本日返却された国語の小テストが入っていた。テストの点数は七十八点。百点から遠ければ遠い程、少女は母親に強く殴られた。何故、出来ないのかと。私達の子供なのに、と。
「お姉ちゃん」
少女は虚ろな目をしながら、顔を上げた。そこにはランドセルを背負った可愛らしい子供が立っていた。
「これ、あっちのお兄ちゃんが、お姉ちゃんにって」
子供の小さな掌には、赤い縞々の紙に包まれた大きな飴玉が乗っていた。少女は飴玉を受け取りながら、子供が指す方を見た。少女達から少し離れたベンチに、茶色い髪の毛を短く整えた、大きな瞳が印象的な少年が座っていた。少女が少年を見ると、少年は人懐っこくにっこりと笑った。少女は少年に釣られて少し笑った。少女は笑えた自分に驚いた。少女は暖かい気持ちになり、飴玉を口に放り込んだ。甘い砂糖の味が口一杯に広がり、少女は少年にお辞儀をした。すると少年は席を立ち、少女の前に来た。少年が照れながら少女の隣の席を指したので、少女は少年を見上げながら、こくんと頷いた。
少年の後ろには、ライトアップされた真っ白な巨塔『バベル』が聳え立っていた。
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20XX年、東京都豊島区は日本国特別地区の認可を取った。カジノ、風俗。あらゆる娯楽が特区内で楽しめるよう改正された「サービス業特別法」。池袋はそのモデル地区として選ばれた。数十年に渡る激しい誘致合戦に勝ち抜いたのだ。
新しい特別地区認定を受け、豊島区民は喜びに沸いた。一方、治安の悪化などを問題視し、苦言を呈する者もいた。日本に住む者達は新しい制度に興奮し、それがもたらすであろう経済効果に期待した。さらに連日、ニュースやワイドショーが煽り、日本全体が祭のような雰囲気になった。
新たなビジネスチャンスを求め、人々が世界中から流入した。そしていつしか池袋は不夜城と呼ばれる街へと変化した。
池袋ターミナルビルは変貌し、東口の西武デパートと西口の東武デパートを、さらには池袋三越や家電量販店を飲み込んだ世界一の塔『バベル』が建造された。
バベルには二十五階まで東武・西武デパートが、五十階まで数多の商業施設が、百階までホテルが、そしてその上に区営の巨大カジノが入り、人々を魅了した。中でもカジノは『サービス業特別法』の目玉であった。
バベルの周辺にはやはり高層ビルが立ち並び、多くの商店や風俗店が犇めいていた。
「おかえりなさいませ、ご主人様ニャン」
「お迎えに参りました、お嬢様」
立体電光掲示板から浮かび上がるウサギの耳を着けたメイド服の女性、その裏側に立つ黒いシックなスーツを着た執事風の男性。
日本文化が生み出したメイド喫茶と執事喫茶は池袋の二大サービス業として勢力を拡大していた。カジノでぼろぼろになった人々を、風俗で根こそぎぼったくられた人々を癒す憩いの場所として、無数のメイド喫茶、執事喫茶が開店しては消えていった。
しかしその一角に池袋駅前地区のビルディングとしては不似合いな、たった十二階しかない小さなビルがあった。七海ビルディングと呼ばれるその古ビルには三人の母子がひっそりと暮らしていた。天まで届くかと思われる巨塔バベルを取り囲むかのように立ち並ぶ高層ビル。そしてビルの隙間に残された低い商業ビル群。低い商業ビル群はバベル建設に伴って行なわれた都市開発から取り残されていた。そんな池袋の下町に、母子はいた。
朝の光は白く輝くバベルを照らしていた。その光は特殊な素材の外壁に当たり、きらきらと細かく反射し、宝石が鏤めてあるかのような美しさを演出していた。
「いってきまーす」
巨大な宝石箱のように輝くバベルと対照的な、古い灰色のコンクリートに包まれた七海ビルディングから、一人の学生が出てきた。
「おや、早いわね。いってらっしゃい、香ちゃん」
そう学生に声を掛けたのは、隣のビルにある『千登利二号店』の女将だ。女将は長柄箒を持ちながら、ふわぁと軽く欠伸をした。
「女将さん、行ってきます」
香と呼ばれた学生は明るい声で女将に挨拶をし、手を振った。
朝から元気よく挨拶をした香だが、頭の中は心配事で一杯であった。洗濯洗剤がない。どう考えても昨日で終わった。しかし財布の中身は五〇〇円しかない。三五〇円の洗濯洗剤を買うと残りは一五〇円。兄に生活費を貰うべきなのは分かっているが、兄もあまりお金を持っていないのだ。母が次から次へと借金を作り、その返済額が毎月百万円を超えていた。いくら働いても働いても兄の収入は母の作った借金の返済へと吸い上げられていった。そんな兄に生活費が無いと言えるだろうか。
香はちらっと袖口を見た。兄から貰った古い学生服は少しほつれて、細い紐が出ていた。
明るいネオンに照らされ、紺色の星空が全く見えなくなった池袋。しかしこの街にも何校かの学校があり、そこに通う生徒達がいた。
私立池袋若草学園。一五〇年程の歴史がある中高一貫校である。池袋がサービス特区になったのを受け、「サービス科」を作り、サービス業に従事する若者への教育にも力を入れている。一方、昔からある普通科には伝統があり、多数の生徒を有名大学へと進学させていた。
眼鏡を掛けた黒髪の生徒の大半は普通科の生徒達で、池袋の街で場違いな雰囲気を醸し出していた。
土方香も池袋若草学園の普通科に通う真面目な少女である。四角い黒縁眼鏡、腰まで伸びる太い三つ編み、若草の卒業生である兄から貰った詰め襟の黒い標準服が彼女のトレードマークだ。いつも参考書を片手に歩いているその姿は、ガリ勉少年のようである。
「やぁ、香。おはよう」
朝早くから元気良く香に挨拶をしたのは香の親友である近藤真琴だった。彼女は早朝練習の後なのか、剣道着と袴を着た姿のままであった。黒い真っ直ぐに伸びた髪を、後頭部で一カ所にまとめ、萌葱色の組み紐できゅっと結っている。
「おはよう真琴。レポートは出来た?」
「いやー、剣道の全国大会が近いから、まだだよ」
真琴が顔を近付けてきたので、香は今度の模試に出る部分だよと言って、参考書を見せた。
「いつも香の参考書は書き込みが沢山入っているな。私の参考書なんて真っ白だぞ」
「メモしておかないと忘れてしまうだけだよ。全国大会はいつ?」
「来週の日曜日。観に来てくれるよな」
「もちろん!」
「我が親友殿の応援があれば百人力さ。今年も全国大会を獲るぞ!」
にこっと笑う真琴の背中を、香はぽんと叩いた。毎年、全国大会で優勝している真琴は幼少の頃から天童と呼ばれた剣道少女である。すらっと伸びた背筋に沿って滝のような美しい黒髪が腰まで流れている。昔からくせっ毛に悩まされていた香は、真琴の真っ直ぐ伸びた黒髪を羨ましいと思っていた。三つ編みを解いた途端にぼわーんと膨らみ、くるくるっと跳ねる髪は、香の悩みの種だった。
「香君、真琴君、おはよう」
門の前にいた香達が見上げると、池袋若草学園の二階にあるテラスに、生徒会長の芹沢エカテリーナが立っていた。ロシア人の母親から受け継いだ金色の柔らかい巻き毛が優しい風に靡いている。白い光沢のある、若草の標準服というよりは軍服に近いデザインの詰め襟とズボン、スネークウッドで出来た杖は彼女のトレードマークであった。
エカテリーナの姿に気付いた女子生徒がキャーと、黄色い声をあげた。
エカテリーナはにっこり笑い、その生徒達に軽く手を振り、それから香達を見て言った。
「今日の午後、役員会があるから生徒会室まで来てくれ」
「はい、会長」
香と真琴が返事をすると、芹沢は頷き、教室へと入っていった。香と真琴は高校一年生であったが、高校生になってすぐに生徒会役員に推薦され、投票によって当選した。香は会計を、真琴は書記を担当していた。
エカテリーナの姿が消えても、女子生徒達はキャーキャーと声をあげていた。
彼女らを見ながら真琴は、はぁっと溜息を吐き、言った。
「いやー、うちの会長の人気は凄いな」
「エカテリーナ会長にはカリスマ性があるからね。先輩が卒業した後は大変だよ」
「カリスマ性か。才色兼備が服着て歩いているようなものだからな。人気も出るわな」
「真琴だって人気があるじゃない」
香が笑いながら真琴の肩を突っついた。
「うっ……だが私は軟派な事は苦手なのだ」
香が真琴の顔を覗き込むと、真琴はちょっと視線を逸らして、そう呟いた。それから真琴は空を見上げてきらきらと瞳を輝かせながら言った。
「私の夢は強い奴に会いに行く旅をする事だからな。恋に現を抜かすような軟弱な精神は修行の邪魔だ。そして世界中を渡り歩いてストリートファイトをするのだ。その時は香も連れて行くからな」
「ははは、行く行く。戦いは真琴に任せて、私は洗濯とかしているよ」
「お前も闘うんだぞ」
「あはは、無理無理」
真琴の脳裏に香と初めて出会った時のシーンがリプレイされた。
同じクラスだがまだ馴染みがなかった中学一年生の春。小学生の頃から神童ともてはやされ、全国児童剣道選手権大会で優勝をしていた自分。そんな時、授業で剣道があり、二人一組で簡単な試合をする事になった。小学校のカリキュラムにも剣道はあり、そのおさらいのようなものだった。全国大会で優勝経験のある真琴は、素人相手に本気を出してはいけないと思ってはいたが、負ける気はなかった。相手は小さな少女で、剣道の世界では見た事のない者だった。
「コテ」
あっという出来事だった。遠くから腕が伸びた次の瞬間、コテが決まり、いつしか真琴は竹刀を手から落としていた。優雅な軽い動きに見えた。何故自分は竹刀を落としたのか。何をされたのか分からなかった。
真琴が小さな少女・土方香に負けたのはその日のうちに運動部中に広がるニュースになったが、その後、真琴が香に負ける事は一度もなかった。あれは夢だったのだろうか。それとも何か、自分のミスで竹刀を落としたのだろうか。あの瞬間の事を何度も考えたが、あの時、何が起きたのか、未だに真琴には理解出来ていなかった。
「駄目だ、そんな軟弱な精神じゃあ。来い! 今から特訓だ」
「ちょっと、あの、真琴、英語の予習が」
「そんなものは後だ。まずは精神を鍛えないと勉学も身に付かないぞ」
「いや、真琴も一緒に勉強したほうがさ……」
「いくぞ!」
真琴は香の腕を引っ張りながら、剣道部の部室へと向かった。
香は真琴にぐっと腕を捕まれた。そのまま剣道部の部室へと引っ張られ、視線の先にあった教室が香からぐんぐん遠くなっていくのだった。
「うわーん、真琴、勘弁して~」
泣きながら真琴に引っ張られる香は、誰が見てもか弱い十五歳の少女だった。
放課後。池袋若草学園生徒会室。
生徒会長のエカテリーナは、厳しい表情をしながら窓の外を見ていた。
生徒会室に集まった役員達はエカテリーナ会長の後ろ姿を見ながら、ひそひそと語り合っていた。
「今日の議題はなんだろう」
そういう真琴に、香が眉間に縦皺を作りながら答えた。
「会計でミスがあったのかな? 私、やっちゃったのかな?」
「まさか。まだ予算は決定していないはずだぞ。それに香は今まで一度も間違えた事がないではないか」
その時、エカテリーナ会長が振り返った。
「生徒会役員会を始める。皆、集まっているな?」
はい、と香達は返事した。
「今日の議題は最近、東京に出回っている合成薬『CEO』についてだ。これはまだ公表はされていないが、我が校の生徒から逮捕者が出た」
「サービス科二年C組堀江文子ですね。昨日、休学届けを出したようです」
副会長の堤亜希子が言った。
「その通りだ。彼女は校内に『CEO』を持ち込み使用していたのを、たまたま保健医が見付け、麻薬取締官へと引き渡した。購入場所はバベル一階のサンシャイン通りだ。この学校はサービス特区の真ん中ともいえるバベルの裏手にあるから、どうしても薬の売人等を見る機会が多くなる。しかし我々若草の生徒は決して薬に手を出すような甘い誘惑に負けてはならない。これは学校の存亡に関わる問題だ。特区では大人については酒・煙草、そして一部の薬物が合法とされている。しかしそのどれも我々高校生には全て禁止されている。それを踏まえて、通学路などで学生と麻薬密売人の接触を警戒してもらいたい」
生徒会役員達は、はい、と厳しい表情で返事をした。
生徒会が終わり、香と真琴は鞄に書類を入れた。
「『CEO』ってどういう薬物なんだろうね。真琴は知っている?」
「さあな。しかし薬物などに頼る奴だ。軟弱な精神の持ち主なのだろう。剣道部に入ったら私が鍛え直してくれる」
そう言いながら竹刀を持っているかのような姿勢で両手をぶんっと振る真琴を見て、香は頼もしいなと思った。
その時、後ろから紙飛行機が飛んで来て、香の後頭部に当たった。
「あいた!」
「ほーーーっほっほっほっ! ごめんあそばせ。そこのメガネ君、あたくしの飛行機を取っていただけるかしら?」
この甲高い声。このような笑い声の女は校内を探しても一人しかいない。サービス科コースリーダー・韓麻理亜だ。カジノ王の孫娘で、高校に入学した途端、サービス科のコースリーダーに就任し、権力を振るっている。いつも彼女の後ろには五人の黒い服に包まれたSPが立っていた。
縦ロールの黒髪を指で弄んでいる麻理亜に香は見下ろされた。
「拾ってくださる? 普通科の会計さん」
香は足下に落ちている紙飛行機を拾った。紙飛行機は一万円札で出来ていた。香はちょっとむっとしながら、紙飛行機を麻理亜に手渡した。
「ほほほ、ネコババせずに拾ってご苦労様。これは謝礼よ」
麻理亜は香の胸ポケットに千円札を入れようとした。しかし香は彼女の手を弾いた。
「貴様! お嬢様のご厚意を!」
香に飛びかかろうとする黒服のSPを、麻理亜は左手を上げ、止めた。
「白虎、およし。ありがとう、メガネ君」
麻理亜は甲高い笑い声を響かせながら、生徒会室を出ていった。
「何だ、あれは? むかつくな」
「いいよ、真琴。気にしないで」
「だが」
「いいって」
韓麻理亜は中学の頃から何かあると香にちょっかいを出してくるのだ。どういう理由があるのか香には分からなかった。
「今日は部活?」
そう言う香に真琴がにっこりと笑い返事をした。
「ああ、もちろん」
「じゃあ、お先。また明日」
「また明日な。あんな女の事、気にするなよ」
「うん、いつものことだからね」
香は真琴と生徒会室の前で別れ、単語帳をポケットから出した。そして単語帳を開きながら白く輝くバベルを見上げて考えた。
結局、洗濯洗剤はどうしよう、と。
香達が生徒会室を出てから三十分程後。芹沢エカテリーナが生徒会室から出てきた。彼女はあくまでも優雅な動きをしながら、かちゃり、と生徒会室の鍵を閉めた。そしてコツ、コツ、と杖をつきながらゆっくりと歩き始めた。
彼女の正面から二人の女生徒が近付いてきた。片方の女生徒は手に学級日誌を持っている。生徒会室の向こう側にある職員室へと行く途中なのだろう。
女生徒の一人がぺこりと芹沢エカテリーナにお辞儀をした。
「芹沢会長、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
エカテリーナは笑みを浮かべ、女生徒達に挨拶した。
すれ違った女生徒達は顔を見合わせ、うふふと笑った。
「エカテリーナ様に声を掛けたら、挨拶してくださったわ」
そう言う女生徒の手を、肩胛骨の下まで伸びたツインテールの女生徒がぎゅっと握った。
「裕紀ったら、もう。いきなり挨拶するから、びっくりしちゃった。エカテリーナ様ったら、わた、わた……私の方を見てくださったわ」
「翼は可愛いもんね。最近、痩せてきたし」
裕紀と呼ばれた少女は少し心配そうに、翼と呼んだ少女を見た。翼と呼ばれた少女は少し頬がこけ、目の下に黒い隈が出来ていた。
「でも……ちょっとは食べたほうがいいよ……」
そう裕紀が言うと、翼は目を少し吊り上げ、高い興奮気味の声で言った。
「裕紀ったらおかしな事を言うのね。裕紀ももっと痩せないとモテないわよ。エカテリーナ様を見なさいよ。ほら、あの細い首。細い足」
「翼、エカテリーナ様の足は両足共義足よ」
「本当? 全然、見えない」
「子供の頃、ご両親と共にテロリストに狙われたのよ。ご両親はその時に亡くなって、エカテリーナ様は膝から下の両足を失ったとか」
「凄い」
翼は瞳をきらきらと輝かせながら言った。
「そんな不幸な目にあっているのに、あんなに凛々しくてお美しいだなんて。もう私達とは別世界の人間ね」
「生徒会役員なんて、私達凡人とは別世界の方ばかりよ。サービス科のコースリーダーなんてかの有名なカジノ王の孫娘でしょ。私達は池袋に住んでいるからたまたまこの学校に入っただけだけど、もうテロリストに狙われるご身分のエカテリーナ様とか、韓麻理亜様とか、漫画に出てくるような華麗でお美しい方達ばかり」
溜息を吐く裕紀に、翼は憎しみの籠もった低い声で言った。
「私達……とか一緒にしないで。裕紀は他人事かもしれないけど、私はお母様もお父様も母校で生徒会長をやっていたから……裕紀とは違うんだから……」
そう言って、翼はポケットから飴玉を出し、口に放り込んだ。
「ごめん、ごめん。そうだったね。翼のお母さん、翼が生徒会長になるのが夢だもんね。でも大丈夫だよ。まだ二年、三年ってあるし。ほらあの……名前忘れちゃったけど、なんか鈍くさそうな一年が生徒会役員に一人いて、会計やってるし。きっと二年ではそこに入れるよ」
「う、うん」
「一緒に勉強して、頑張ろう。とりあえずこれを先生のところに届けないとね。行こう」
そう言って裕紀は翼の手を引っ張った。
「うん。成れる、成れる、私は成れる、きっと生徒会長に成れる、あは、あはは」
少し興奮気味に笑うツインテールの女学生の様子を、廊下の端からエカテリーナが厳しい表情をしながら見つめていた。
バベルの並びにある池袋若草学園の裏門を出ると、目の前に古いビルがあった。そこが香の自宅である。香の母親は若い頃、親に反抗し実家を飛び出した。その時、母を溺愛していた祖父が、母が自立して生きていけるように贈ったのがこの古いビルである。ビルは巨大な高層建築バベルの横に広がる古い商業ビル群の一角にあった。その中でも目立って低い七海ビルは母のたった一つの財産であり、香達の生活の糧であった。
香がビルの裏口から入ろうとした時、エレベーターから降りてくる母親に会った。にんまりと笑う母親を見て、香は少し嬉しかった。
「ママ、ただいま。ご機嫌だね」
「あら、香ちゃん。おかえり」
「どこに行くの?」
「ほほ、いいところ」
香はぐいっと、母・土方七海に抱き寄せられた。七海の赤い唇が頬にゆっくりと近付いてきたので、香はちょっとドキドキしながら体を強張らせた。七海にちゅっと軽いキスをされ、香の心臓は体から飛び出しそうな程高鳴った。
真っ赤なスーツに赤い靴。一見派手に見えそうな服を、七海は見事に着こなしていた。道行く人々が振り返る。彼女の手に触れられるなら、彼女とデートが出来るなら財産を投げ出してもいい。そう思える程の美女であった。
人々の羨望の的となる母を、香は誇りに感じた。
「ちゃんと宿題を終わらすのよ」
「はい、ママ」
手を振りながら人混みの中に消えていく七海が見えなくなるまで、香はずっと見送っていた。
「ただいま」
香の家はビルの地上十一、二階であったが、いつも帰宅時には地下一階のお店「メイド喫茶 アリス」にいる兄に挨拶をしていた。
しかし今日は店内の空気が緊張していた。
香が扉を開けると入口傍にガラの悪い男が二人、ぬっ、と立っている。そしてその足下で兄が土下座をしていた。
「分かってると思うんですけどね、ニイさん。今日が支払い日だったことぐらい。ちゃんと五〇万。耳を揃えて返さないと……ね」
そう低い声で凄む借金取りの前で、ひたすら兄は謝っていた。
「すいません……すいません……すいません」
バイトのメイド達はぶるぶる震えながら、店の隅に固まっていた。
香は扉の前で呆然と立っていた。すると土下座を続ける兄が香に声を掛けてきた。
「香! お母様を知らないか?」
香は必死な顔付きで自分を見る兄に、震えながら答えた。
「マ……ママなら今、入口ですれ違ったよ」
「何か……封筒とか持っていなかった?」
「わ、分からないけど……とても上機嫌だった……」
兄はがっくりと項垂れた。香はその時に気付いた。母はあの時、借金返済用の金を持ち出したのだと。
「……お金は無いようですね。困りましたね」
「すいません……あの……半月後には……必ず……」
強面の借金取りは部屋の隅に居たメイドの手を取り、自分の元へと引き寄せ、後ろから抱きしめた。
「いやぁ !!」
「いいんですよ、借金のカタに、ここのムスメさんを代わりに頂いても」
借金取りはピアスが付いた舌で、メイドの首筋をつーっと舐めた。ドクロの指輪を嵌めたごつい右手が、メイドの下半身をまさぐった。スカートが捲れ上がり、白い腿が見える。
「止めてください! ……あの……彼女達は……ただのバイトさんなので……」
兄は青ざめながらそう言った。
「ははは、冗談。冗談ですよ。まぁ、いつもにこにこ現金払いのお客様ですから。半月待ってあげましょう。利子は付きますから、お早めにお願いしますよ。……帰るぞ」
そう言って借金取り達は店から出ていった。
「兄さん!」
借金取りが出て行った直後、香は兄の元へと駆け寄った。
「私は大丈夫だから、キョウコちゃんを見てあげてくれ」
キョウコと呼ばれた、借金取りに抱かれていたアルバイトは、わんわん泣きながら床に伏していた。同僚のメイド達が肩を抱いて彼女を慰めていた。
「怖かっただろう。……ごめんね」
「うわわあああああん !! もう、もう私、辞めますぅううう !!」
香はキョウコの肩を抱きながら唇を噛んだ。メイド喫茶・アリスの時給は周囲の平均額より低く、そんな中でやっと来てくれたアルバイトなのだ。
この日、三人いたアルバイトの内、二人が開店前に辞めていった。
「寂しくなりますねー」
たった一人残った女性は香の幼なじみである斎藤絵美――メイド名「エミリ」――だけであった。
三人は暫く黙ったまま立っていた。静かな店内に古時計の振り子の音だけが響いた。
「あの……兄さん……私も手伝うよ」
「香、でもお前の学校、バイト禁止だろ?」
「だけど地毛の金髪で働けば、ばれないんじゃないかな? 特区条例では十八歳以下のメイド喫茶労働を禁止しているけど、家業の手伝いは別で、手続きをすれば大丈夫だしさ。確か、店を開く時に私の就労許可証を取っておいたよね」
土方家の長子菊二郎と、第二子の香は異父兄妹だった。長男の父親は放浪癖があり現在行方不明である。香の父親は在日米軍に勤務していたが、帰国と同時に七海が離婚を言い渡した。そのアメリカ兵の血と、ドイツ人である祖母の血を引いた香の地毛は鮮やかな金髪だった。学校では目立たないように黒髪に染めて通っていたのだ。アイドルのような華麗な容姿が多いサービス科の生徒と違い、普通科の生徒は黒髪の生徒が多い。香の目が覚めるような青い瞳も、カラーコンタクトレンズによって黒い、日本人っぽい瞳になっていた。
「香……」
はらはらと涙を流す兄に、香はぎゅっと抱かれた。
「ごめんな……お前には苦労を掛けないと誓ったのに……ごめんな」
「いいよ、兄さん。私も放課後しか手伝えないけど。数日したら、アルバイトさんが来てくれるって」
香の頬にぽたりっと、兄・菊二郎の涙が落ちた。
その次の瞬間、香は兄の手でくるりと反転させられた。
「というわけでエミリ、香にメイド服を着せてあげてくれ」
「はい」
エミリが元気よく菊二郎に答えた。
そういえば我が喫茶店の制服はメイド服だった、と香は思い、次の瞬間深く後悔した。だが家族が危機の時に自分一人が何もしないわけにはいかない。でも……。そう葛藤する香を心配してか、彼女の手をエミリが優しく握ってくれた。
「香お嬢様。更衣室に行きましょう」
「う、うん……あのさ、メイド服じゃない制服は……」
そこまで言いかけた時、香はいつも自分に尽くしてくれている絵美に、このスカート丈の短いメイド服を着せ、兄の店で働いて貰っている事を思い出し、口を閉ざした。
「香様が知っての通り、もちろんありませんよ、ねぇ? 菊二郎様。ほら、菊二郎様も頷いていらっしゃいます。香様は絶対、この制服が似合いますよ。だってあたしと菊二郎様が、香様をイメージしてデザインした制服ですもの」
「え? そうだったの?」
香が驚き、菊二郎を見た。
「ん……まぁ」
「それにしては丈が短くない?」
「そこはあたしの趣味です」
エミリが胸を張って言った。
「さっ、お着替え♪ お着替え♪」
エミリに手を引かれながら、香は更衣室の中へと入っていくのだった。
更衣室に消える二人を見ながら、菊二郎は安心した表情で、テーブルを拭き始めた。
更衣室に入るとエミリが机に座ってパソコンのキーボードを早いスピードで叩き始めたので、香はロッカーに寄り掛かりながらそれを見つめていた。
「お嬢。制服はあと五分でお店に届きます」
「お嬢は止めてくれよ、エミリ……それとも今は”データ“と呼んだ方がいいのかな?」
「エミリでもデータでも好きな方で呼んでくださってかまいませんわ。あたしはあたしですから。……でも、そうですね、お店でお嬢と呼んだら大変ですから、香様とお呼びしますね」
「呼び捨てでいいよ。かおるって。仕事では後輩なんだしさ。そもそもエミリは私が源ジイの孫だってだけで仰々しく扱い過ぎだ。エミリの家系は確かにうちの本家によく仕えてくれているけど、もうママは本家を飛び出して来たんだからさ」
「七海様がお家を飛び出したなら、ここが七海様の新しい『ファミリー』です。あたしは七海様と、菊二郎様と香様にお仕え出来れば満足なんですよ。うちの父は源様に仕えております。あたしの祖父も祖母もそのまた曾祖父も、ずっと土方家に仕えておりますが、それは『土方家の人間』だから仕えているんじゃないんです。惚れたから仕えているんです。あたしが惚れたのは七海様とそのファミリーなんですよ」
「その……ファミリーっていうのもさぁ」
「何かおかしいところでも?」
「……いや、なんでもない」
香の祖父・土方源は巨大コンツェルン『土方』の会長であった。土木建築を中心に、サービス業や金融・不動産と手広く扱い、その要所要所に親族がいる、いわゆる親族経営の会社なのである。しかしもう一つの顔は”YAKUZA“であった。池袋組という日本に古くからあるYAKUZA組織を陰で統べるのが土方源という男であった。
「源様は元々土方のYAKUZA体質を嫌っていらっしゃったと聞きます。だから組織改革をして、現在の巨大コンツェルン土方を作ったのだと。でもYAKUZA体質を一〇〇%変えるのはなかなか難しくて……七海様はそんな源様に反抗して本家を出てしまいました。七海様にはきっと夢があるんだと、あたしは思うんです。暴力を使わずに世界を征服する夢が。あたしはそれに付いていくだけです」
「いやね……世界は征服しなくてもいいんだと思うんだよね、私は」
「あたしはそういう香様も好きです」
「あはは……ありがとう」
その時、店のチャイムが鳴り、宅配便が届いた。エミリはそれを受け取り、再び更衣室に戻って箱から出した。
「何、それ?」
香はエミリにリボンタイを着けて貰いながら、そう言った。
「うん、香様にぴったりです」
「メイドの格好って、リボンタイだけでいいの?」
「いいえ」
やっぱり私がメイドなのか……。そう香は思い、溜息を吐いた。
だが稼がなければならない。兄に土下座をさせておいて、妹の自分だけがのうのうと学校に通うわけにはいかない。香はそう強く決心した。
「どれを着るって?」
「首の所にある宝石に指を当ててください。それが指紋認証になっていますから」
「うん。これか」
香は深紅のルビーに軽く触れた。
――認証します。「かおる」さまで宜しいですか?
ルビーからかわいらしい女の子の声がして、香は驚き、絵美を見ながら無言でルビーを指した。絵美がうん、うんと頷き、早く返事をしろと目配せをしてきたので、香はどきどきしながらルビーに話しかけた。
「はい、香です」
――かおるさまを認証しました。
「あっ!」
香の体は薄い光に包まれた。体が柔らかい、母の体内のような、なにか優しい存在に包まれていく。香は光に身を任せ、目を閉じた。
エミリの目の前で香の体がふわりと宙に浮いた。染めた黒い髪が地毛の金色へと変わっていく。髪の毛はほどけ、うっすらと紅が唇を赤く染める。お古の学生服は分解されルビーに吸い込まれていき、新しいメイド服が香の体を包み込んだ。香の周りを微粒子がきらきらと輝く。その姿はまるで天から舞い降りた天使のようであった。
「香様……」
絵美の目の前には、羽化したての蝶のような初々しい金髪の美少女が現れていた。
「凄い! 本当に魔法のようだ!」
一瞬のうちにメイド服に着替えた事で香は驚き、鏡の前でくるりと回った。スカートがひらりと宙に舞う。香はにこにこしながら柔らかい不思議な生地で出来たメイド服を触った。
「ねぇ、エミリ。これってどういう仕組みなんだい?」
そう香はエミリに声を掛けたが、エミリは口を少し開き、ぼうっと香を見つめ続けるだけだった。
「……エミリ?」
香は右手でエミリの頬を触ろうとした。その時、エミリがきゃっと声を上げ、後ろへと下がったので香は驚いた。
「……エミリ……」
香は初めてのメイド服姿を嫌われたのかと思い、悲しそうに顔を歪ませた。慌てたエミリに香は手をぎゅっと握られた。
「いえ! あの! 香様、とてもお似合いです! あの……そう、そのペンダントは私と大学の研究施設が共同開発中の品でして。一瞬で服が着替えられるという優れ物なんです。ただ実験の被験者がいなくて……成功して良かったです!」
「成功しないとどうなるの?」
「爆は……いや、ただ服が破れるだけなんで、心配しないでください。本当、とってもお似合いですよ、香様」
香は怪訝な顔をしながらエミリを見た。
「……まっ、深くは考えないでおくよ。とにかくこのペンダントは便利だ。ありがとう、エミリ」
「気に入って貰えて良かったです!」
エミリが顔を赤く染めながらそう言ったので、香は少し安心してにこっと笑った。
香はいつもと様子がおかしいエミリを見て心配したが、とにかく今は店を開かなければならないのでフロアへと向かった。
滝のように流れる美しい金髪。人を惑わせる大海原のような青い瞳。白い象牙のような肌とは対象的な赤い薔薇のような唇。柔らかい吐息。人間的なものを想像させないその麗しき姿。
「香……?」
菊二郎の目の前には、メイド服を着たフランス人形のような少女が立っていた。陶器のような白い肌の上に、純白に輝くメイド服を纏っている。確かにその制服はメイド喫茶アリスのものだった。だが誰よりも可憐な着こなしであった。
香達の妖艶な母・七海は子供を産んだ今なお、益々美しさを増し人々を魅了していた。七海の父である巨大コンツェルンの会長・土方源は世界中の人々が恐れる大物YAKUZAだった。第七子として生まれた七海は、長子と年が離れ、跡継ぎ争いが激しい土方一族の中で決して有利な立場ではなかった。
だが七海のカリスマ性は群を抜いていた。彼女を見た者は誰でもその美しさに魅了され、彼女にひれ伏した。源は七海を溺愛し、土方一族はいつしか七海が家督を継ぐのだろうと考えるようになっていた。しかし七海はYAKUZA家業を嫌い、本家を飛び出してしまった。
その子供達は至って平凡だと噂されていた。小さな喫茶店のマスターをしている菊二郎。そしてあまり目立たない現役高校生の香。伝説の美女が生んだ平凡な子供達。七海に夢中になった者達は、その子供達の姿を見るたびに安堵と失望の入り交じった溜息を吐くのだった。
しかし、今。
「…………」
菊二郎は言葉を失い、唾を飲み込んだ。目の前にいる者は確かに香である。自宅では地毛の金髪のまま過ごしている香。だがどうだろう。今、目の前にいるのは本当にあの妹なのだろうか? 妹はこれほどまでに美しい少女だったのだろうか?
「どうです、菊二郎様。完璧でしょう? これなら香様のご学友にもばれませんよね」
絵美に声を掛けられ、はっとした菊二郎は咳き込みながら返事をした。
「あ、あぁ。これならばれないな。あの……ちょっとスカートが短すぎやしないか?」
「でも、規定通りの長さですよ?」
菊二郎は戸惑う気持ちを抑えながら、香の足下を見た。膝上まできている白のロングソックス。確かに見慣れたスカート丈なのだが、ちらりと見える香の白い腿が異様なまでに色っぽい。菊二郎は身の内に熱いものを感じながら、再び、こほんこほんと咳き込んだ。
――妹に欲情してどうする。私は一家の大黒柱だろ? ここは心を鬼にして、香に手伝ってもらわなければならないのだから。
そう思いながらも、菊二郎の目は香の腿に惹き付けられていくのだった。
「菊二郎様、今日は香様の初出勤ですから、お客様をお呼びしておきました」
「え? ありがたいな、絵美ちゃん。取り立て屋が来たとかって噂になりやすいから、お客様がいらっしゃるか心配だったんだ」
「有名なメイドカフェサイトの方達です。いわゆるメイドカフェマニアの方達ですよ。香様の写真を添付したら、すぐに来るって返事が来ました」
「え? 私の写真を添付したの?」
香が驚き、目をぱちくりとさせた。
「もちろんですとも」
「絵美、私、バイトがばれたら学校で謹慎処分をくらってしまうよ。サービス科はバイトオッケーだけど、普通科はバイト不可なんだ」
「何をおっしゃいますか。アリスのサイトにも掲載しておりますが、絶対にばれませんから。ねぇ、菊二郎様」
香の白い腿に釘付けだった菊次郎ははっとし、あぁ、ばれやしないよ、と返事をした。
「さぁ! あと一時間で開店ですわ。それまでに香様にお仕事を覚えていただかないと」
エミリは瞳をきらりと光らせて、香を見た。
「そうですね、まず言葉使いを直さないといけませんわね。香様……カヲル、とお呼びいたしますわね……カヲルはメイドなのですから、お客様には敬語を使ってください」
「わかりました。いつもお店で見ていますから、大丈夫だと思います」
「それと……私、はいけませんわね……わたくしにいたしましょう」
「はい。わたくし……」
香は慣れない言葉使いだったので、少し恥ずかしく感じた。
「香様、ちゃんとやらないと学校を退学させられますよ」
絵美の言葉に香の白い顔がますます白くなった。
「そうだ……じゃなくって……そうですね。忘れておりました」
「よろしい。カヲルはアリスのメニューを覚えておりますか」
「はい。コーヒー、紅茶、ケーキ各種ですね」
「そう、あまり種類はありませんから大丈夫ですね。メニューを取る時は、お客様の足元に跪いて伺います。両膝を揃えて、足元に跪きます。メモ帳形式にはなっていますけど、ペンでタッチするだけでオーダーはキッチンに表示されますから簡単だと思います」
「凄いね……ですわね」
香は言葉遣いを間違う度に溜息を吐いた。
「慣れればどうって事ないですから。緊張なさらずにやっていきましょう」
「ありがとうございます。エミリ」
「ではそろそろお客様がお見えになりますわ。遠方からいらしゃるお客様もおいでですから、おもてなしの精神を忘れずに」
「はい」
香はにっこりとエミリに微笑みかけた。
菊二郎は優しく微笑む美しい妹を見ながら、変な虫が付かないかと心配した。
カラーンという軽いベルの音が店内に鳴り響いた。メイド姿になったカヲルは扉の側に立ち、深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
頭を下げると、スカートの裾が軽く捲れ上がった。カヲルは恥ずかしくなって頬が熱くなるのを感じた。だがお客様の前でスカートを押さえる事は出来ない。
別にショーツが丸見えになっているわけではない。しかし心の底から恥ずかしかった。この恥ずかしさはどこからくるのだろう。カヲルは頬が益々熱くなるのを感じた。
頭を上げると、そこには二人の少年が立っていた。二人はかなり長身だった。一六五センチという日本人女性の中ではやや背丈が高いはずのカヲルでも、少し見上げないと顔が見えなかった。前に立っていたがっしりとした体格の少年を見て、カヲルはどこかで会った事があると思ったが、思い出せなかった。
「へぇ、これは……」
そう言ってカヲルの前に立ち止まるがっしりとした少年の後ろから、怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい、立ち止まるなよ。どうしたんだ」
少年の後ろから別の少年がひょこっと顔を出した。
――烈じゃないか!
カヲルは表情には動揺を出さないようにし、深々とお辞儀をしてお帰りなさいませ、ご主人様、と言った。
――なんで真琴の弟が来ているんだ!
頭を上げると、カヲルの目の前に烈が立ち、カヲルをじっと見つめていた。
「……へぇー」
――なんなんだ! なんなんだ、その”へぇー“は!
そうカヲルは思い、少々むっとした。だが表情には出さず、こちらへどうぞ、と席に案内した。
「良い雰囲気の店だね」
「あぁ、そうだろ? アネキの親友の兄ちゃんが経営している店でさ。開店当時は来た事があるんだけど、どうも一人では来にくくてね。今回、武蔵が誘ってくれて良かったよ。今晩は、マスター。覚えてる?」
菊二郎はにっこりと笑い、キッチンから出て烈の前に立った。
「もちろんですとも、近藤様。いつも妹がお世話になっております」
「世話されてるのはアネキのほうさ。あのメガネちゃんは? 上でお勉強?」
「本日は私用で出かけております」
「ふぅん……マスター、俺達データっていう奴にメールを貰って来たんだけど、知り合いかな」
烈と隣の少年の瞳が怪しく光った。
「はい。ただネット上でだけの知り合いでございますが。今日、アルバイトの者が急に辞めてしまって途方に暮れていた時に相談いたしましたら、彼女――この新人のカヲルですが――を紹介して下さいました。お客様も呼んでくださるとメールを頂いたのです。何から何までお世話になってしまいました。近藤様のお知り合いだったとは、世間は狭いですね」
「いや、俺らもネット上でしか知らないんだけどさ。顔を知っていたらなと思って。この娘、ポイント高いね。さすがデータが探してきた娘だ。名前はカヲルって言うんだね」
「よろしくお願いします」
カヲルは烈にお辞儀をした。
「俺、一目惚れしちゃったかも」
烈はにっと笑いながら、カヲルに言った。
――この万年さぼり魔で学校にはほとんど来ない不良が何言ってやがる。
そうカヲルは心の中で毒づいたが、唇の端を上げ、ふっと笑った。
「ご冗談をおっしゃられますと、困りますわ。ご主人様とメイドの恋愛は御法度でございますから」
すると体格の良い少年が言った。
「困らせて済まなかったね。烈も止めたまえ。ボクは鬼龍院武蔵、ヨロシク」
武蔵はすっとカヲルに右手を差し出した。
「当店を今後とも宜しくお願い申し上げます」
そうカヲルが右手を出し握手すると、武蔵はすっと跪いて、カヲルの手の甲にキスをした。
「数多の星よりも美しいカヲルさんに敬意をこめて」
武蔵は瞳をきらりと輝かせながら、カヲルを覗き込んだ。その時、カヲルは肩を掴まれ、横に移動させられた。いきなり振り回されきょとんとするカヲルの目の前には兄が立っていた。
「ご主人様。メイドに跪くとは何事でございますか? ご身分をお忘れでございますか? わたくしは先代からご主人様が使用人と行き過ぎた関係を持たぬようきつく、きつーく言われております」
カヲルは自分を守ってくれる兄の背中を逞しく感じた。
お客様とメイド――客と従業員の恋愛は御法度。これはあらゆるメイド喫茶で暗黙のルールだった。
武蔵はふっと笑いながらすくっと立った。
「いや……そうだったな。心配かけてすまなかった。あまりにも……あまりにも」
菊二郎の後ろに居るカヲルを、武蔵は目で追った。
「あまりにも……その……美しい娘だったので、取り乱してしまったよ。すまなかったね」
武蔵は案内された席に座り、ふぅっと溜息を吐いた。
「一体、データはこれ程の娘をどこで見付けてきたんだろうね」
烈は入口近くに立っているカヲルをちらっと見て、さぁ、と言った。
「結局、データは居なかったな」
烈がそう言うと、武蔵がにやりと笑った。
「もしかしたらバトラーがそうかもしれないヨ」
そう言う武蔵に烈はまさか、と答え、笑った。
「ありえないね。開店当時に何度か来たけど、マスターはレジの使用方法にも戸惑っていたんだぜ。紅茶の味は絶品だけど、機械オンチなんだ」
「でもこの店は開店当時からサイトがあったからな。そこまでPCオンチではない」
武蔵がそう言うと、烈はちらっと菊二郎を見た。
「無理無理。あれは妹と一緒でのほほん系さ」
「のほほん系ねぇ……。そういえばここのメイド喫茶の制服は全身白で珍しいな。メイド服といったら制服が黒でエプロンが白っていうのがスタンダードだよネ」
「俺もそれを不思議に思って、昔、マスターの妹に聞いた事があるんだ。そうしたらエミリちゃん――あそこにいる丸いメガネを掛けたメイド娘の事だけど――の趣味なんだってさ」
烈はメニューを開いて、紅茶を選び始めた。
「俺さ、あんまり紅茶とか飲まないけど、どれがオススメ?」
「そうだな。今の季節だとジュンパナ茶園のダージリンがいいと思うな。ファーストフラッシュがあればいいけど。まぁ、この規模の喫茶店には無いと思うが」
そう言いながら武藏はメニューをちらりと見た。
「うん。まぁ、でもダージリンがオーソドックスでいいんじゃないかな。飲み方はストレートがいいだろう」
「じゃあ俺、それでいいや」
武藏はテーブルに置いてあるベルをちりりんと鳴らした。
「ご主人様、ご用件を伺います」
カヲルは武藏達のテーブルの前に跪き、メモ帳を出した。
「ダージリン二つとチーズケーキと、スコーンを持ってきてくれたまえ」
「かしこまりました、ご主人様」
カヲルがゆっくりと立ち上がり、カウンターへと向かう姿を、武藏はじっと見つめていた。
「……なんていうか、お伽噺の世界に紛れ込んだみたいだな。世界中の美女が集まる快楽都市池袋だが、あれ程の娘は見た事がない。世界は広いな」
「なんだよ武藏、また一目惚れか? 俺も狙っているのに」
「ボクの一目惚れはいつも本気さ。それに烈。狙っているなどと言ったら、彼女に失礼だろ。恋をしている、と言いたまえ」
「そんな恥ずかしいセリフを吐けるか」
「それにしても良い店だな。調度品がなかなか良い。ボクもサイトは見た事はあるが、まだ一度も来ていなかった。データは凄いな。池袋のメイド喫茶全店を網羅しているっていう噂は本当だったのか。池袋だけでもかなりの数のメイド喫茶があるというのに、よくチェックしているよ」
「データが管理している『全国メイド名鑑』には池袋どころか世界中のメイド喫茶が載ってるぜ。それもやたらと詳しい。
でもこの店を武藏があまりチェックしていないのも当たり前さ。アリスの前身は普通のカフェで、その頃からの近所の常連が多いって、マスターの妹が言ってた。だから宣伝を全然していないんだ。雑誌にも載らない、有名な飲食店マップにも載っていない。ただ豊島区のグルメマップに載っているだけだ。
それが今回はデータからメールが来てのお誘いだ。誰も断らないだろ。その上、あの美少女新人だ。データは余程、カヲルに萌え萌えなんだろう」
「そりゃあ、お熱にもなるよ。ネット上のデータからは想像も出来ないけどね。あんな美少女を知っていたら、どんな美女からチャットに誘われても『山内リザ事件』みたいに受け流すはずだよネ」
「あのアイドル・山内リザがデータにチャットを申し込んだら断ったっていう有名な事件だろ。山内が激怒してファンがデータに突撃したら、テラ炎上して、結局山内は芸能界引退宣言をしたんだよな。あの時のメイ鑑BBSのログはまだ保存してあるぜ」
「あの祭は寝不足になって困ったヨ。あの事件の時もきっとデータは人知れずカヲルを愛でていたんだろうな」
「光源氏みたいにな。きっとデータはロリコンだ」
その時、カヲルがデザートを運んで来たので、二人の会話は不自然に止まった。
「ご主人様、デザートの時間でございます」
「スコーンはボクだ。チーズケーキは彼に」
そう武藏が言うと、カヲルはかしこまりました、と返事をした。
――どこに住んでいるの? 本名は? 趣味は?
武藏はカヲルにいろいろと聞きたかったが、ぐっと我慢をした。
烈は少し呆然とした顔をしながらカヲルを見つめていた。
もしかしたら烈の一目惚れというのも案外本気なのかもしれないと思いながら、武藏は紅茶を口に運んだ。
「こ、これは!」
「ん? どうしたんだ? 武藏」
「この爽快な青空を思い起こさせる澄み切った味。茶の渋みがなく茶葉の味を十分に味わえるこの品質。高山の先にある麗しき茶園と清らかな茶摘み乙女達を想像させる黄金に輝く水色。
バトラー、この紅茶、ジュンパナ茶園のDJー1でしょ」
「凄いですね、鬼龍院様。茶園までおわかりになるとは。こちらは仰せの通りジュンパナ茶園のDJー1でございますよ。伯母が貿易商でしてね、先日お店用に頂きました。春の訪れを感じさせる茶葉でございますから、この季節感のない池袋でお客様に少しでも春を感じていただければと思い、お出ししております」
「そうですか。とても美味しいですよ」
「ありがとうございます」
菊二郎はカウンターの中でにっこりと笑い、軽くお辞儀をした。
「ふうん。武藏が言うように、確かに渋みがないね」
「うん、日本の軟水だと、普通の紅茶はもっと渋みが出るんだけどネ。二杯目には鮮やかでしつこくない渋みを感じると思うヨ。というか、普通、この茶葉は自宅用で、店には出さない代物だよ。出荷量も少ない。それを店にも出せる分量を贈る、バトラーの伯母ってどんだけ稼いでいるンだ」
武蔵はカップを見つめながらそう言った。すると烈がぷっと吹き出したので、武蔵は何か変な事を言ったかい? と烈に聞いた。
「ちょっと待てよ、武藏。こう言っちゃなんだが、マスターの妹はマスターのお古の制服を着て学校に来ているんだぜ。ようするに激貧乏ってこと。伯母さんっていっても遠い親戚だろ。まぁ、問題はそのオバサマがマスターにそれだけの紅茶を貢いでいるってことで……それってマダムキラー?」
烈と武藏はちらっと菊二郎を見て、また視線を戻した。
「あの天使のような微笑みでマダムを何人殺しているンだか」
「そうだな。今、この喫茶店の家具や食器が高い原因も分かったよ。これは絶対にマダムに貢がせてるわ」
そう言って烈は店内を見渡した。
「あのメガネちゃんの経済状況からいったら無理だもんな。カップボードに入っている食器とか高そうだし」
「烈もそう思うかい? このティーカップ、ロイヤル・ウースターの食器にそっくりなぼかしが入った繊細な絵柄なんだけど、この店にあるのは全て不思議の国のアリスがモチーフなんだよね。……見たことがない絵柄の食器だよ。ニセモノにしては絵が上手だし。本物なのだろうか。棚の多くはこのシリーズだけど、一部だけマイセン、プラチナコバルトのティーセットがある」
「ふぅん。武藏はよく知っているなぁ」
「烈も少しは紅茶や食器に興味を持ちたまえ」
「いや、俺はメイドウォッチャーがスタンスだから」
「烈がそう言うのも無理はない。ほとんどのメイド喫茶の備品は安いからな。この店は妙な感じだ」
「そうかね。俺の頭には先程から有閑マダムといちゃついて備品を貢がせているマスターの姿が浮かんでいるよ。なんら不思議ではないだろ」
「……それもそうだな」
「妹のメガネちゃんもあのマスターぐらいにこう、繊細な格好良さ……いや、一応女だから可愛らしさ? みたいなものがあったら、俺、毎日学校に行くね。なんであれとあれが兄妹なんだかよくわからん」
「烈、女性に対して失礼だぞ」
「武藏だって見ればそう思うさ。池袋一のダサ子ちゃんだ」
そう言って烈は紅茶を口に運んだ。
「……これ、本当に美味いな」
「だろ?」
武藏は満足そうににやりと笑った。
その後も十人程の客がアリスへと来た。どの者も有名なメイド喫茶マニア達で、彼らが帰宅してすぐにアリスの新人メイド・カヲルの噂は全国へと広がっていった。
2
次の日。
池袋若草学園は少々騒がしかった。学校の裏手にある寂れたメイド喫茶に新人が入ったらしい。それも絶世の美少女らしい。サービス科のネットワークを使っても少女の出自が分からないらしい。そのような噂がサービス科を中心に流れていた。
サービス科の生徒の大半はなにかしらの「アイドル」だった。芸能プロダクションに所属する者、劇団に所属する者、幼少の頃からコンパニオンで稼ぐ者、ネットアイドルや有名喫茶店に従事するアイドルキャストもいた。
知名度合戦も凄まじいもので、有名人への誹謗中傷や嫌がらせなども日常茶飯事だった。
サービス特区にある池袋若草学園のサービス科は韓のように経営者の子がサービスを学ぶ為に入学するタイプと、容姿端麗な子がサービス特区で伸し上がる為に入学するタイプの二通りの生徒が通っていた。そこでは経営者の子女が容姿端麗な生徒を青田買いする事も多々あった。
そんな彼らは個々人がライバルであったが、一方で同窓生であり、その関係は深く、容姿端麗な者の国内情報はほぼ全て池袋若草学園のサービス科へと集められていた。
メイド喫茶・アリスの情報を知ろうにも、生徒の多くは普通科にアリスの経営者の妹がいる事を知らなかった。知っているのは生徒会役員ぐらいであった。
「メイド喫茶アリスですって」
そしてカジノ王の孫娘・韓麻理亜も当然その事を知っていた。
「韓様はアリスのバトラーをご存じですの?」
麻理亜の取巻きの生徒がそう言った。
「も、もちろんですわ。我が家は執事喫茶を経営してますから、あのマスターをハントしたこともありましてよ」
「さすが、韓様。もう経営者としての手腕を発揮なさっていらっしゃるのね」
「まぁ、どんな殿方なの?」
「……あたくしの誘いを断る冴えない男ですわ。磨けばそこそこだと思いますが。ただあのぼんくらマスターがそんな美少女をハントするだけの腕があるとは思えませんわ」
「噂によると、あの伝説のネットマイスター・データが関わっているとか」
「まぁ、恐ろしい。あのネットワークに繋がっているものなら破れないものはないという伝説のネットマイスターですわね」
「そうですわ。一体どういうルートで知り合ったのかしら」
不思議そうに話す取巻きに、麻理亜はきゅっと右の眉を上げて言った。
「知り合いってだけなら、あたくしだってデータと知り合いですわ。よくうちの店の掲示板に書き込んでいますもの。どうせその程度の関係よ」
「まぁ! データが書き込むなんて、さすが韓グループですわ!」
しかし彼女達の周囲には結局、カヲルを知っている者はいなかった。
普通科の教室でお弁当を食べていた香と真琴の所に、珍しく登校した烈がやってきた。
「やぁ、アネキ。一緒にいいかな?」
「あぁ、よく学校に来たな。この間、担任が心配していたぞ。成績は落ちていないので問題ないが、たまには顔を見せろって言っていた」
「んー、ちょっとメガネちゃんに聞きたい事があってさ」
香はバイトの事かと思い、少しだけ身構えた。しかし絵美がばれないと言うのだから、その言葉を信じようと思った。彼女の判断はいつも正しく、香を影から支えてくれていた。
「なに?」
そう問う香に、烈は小声で言った。
「お前の所に入ったメイド、凄い噂になってるから、あまりアリスが家業だって言わない方がいいぜ。その机の中がラブレターの中継地点になって使えなくなる」
「ふぅん。新しい娘が入ったって聞いてたけど、噂になるような娘だったんだ。別に自慢して言い触らすような事じゃないし。でも忠告をありがとう」
良かった、烈にばれていない。そう思って、香はほっとした。
「でさ、俺からのラブレターを中継してくれないかな。メールアドレスとか聞いてくれると……いててててっ、よせ! アネキ!」
「烈! お前は剣道の練習をさぼるから、そんな軟弱な精神になるんだ! ラブレターとな? 近藤家の者がそのような軟派な行為に現を抜かすとは。来い! 特訓だ!」
「ちょっと待って! 俺、メシがまだ……香、助けて、助けてくれ~」
香は烈の悲痛な叫びを無視して、黙々とお弁当を食べ続けた。
香が学校から帰ると、アリスには沢山の女性達が面接に来ていた。メイド服に着替えたカヲルが店に出ると、菊二郎からチラシを手渡された。
「カヲルさん、済まないがサンシャイン通りでチラシを配ってきてくれないか」
「はい」
カヲルはチラシを握りしめながら、少しわくわくしていた。
数年前にアリスが開店する時も、香はチラシ配りを手伝っていた。最初にチラシを受け取ってくれたのは実の祖父だった。大企業の会長であり、忙しい身でありながらチラシを配っている香の元に来て、自ら受け取ってくれた。それから次々、チラシが無くなっていったのだ。
今日は祖父はいないだろう。きちんと全部配れるだろうか。カヲルは少し不安を感じながらサンシャイン通りへと出た。
バベルの一階には巨大な通りがあった。池袋駅を挟んで東から西へと伸びる通りの名は「サンシャイン通り」と呼ばれていた。
ショッピングを楽しむ人々と、カジノを回遊する人々。また特区合法ドラッグ売りが混ざり、ちょっとしたカオス空間になっていた。
カヲルはメイド姿のままサンシャイン通りに入るのを少しだけ躊躇した。
――大丈夫。スカートの下はかぼちゃパンツだから、覗かれても大丈夫。
カヲルはきゅっと唇を結び、通りへと入っていった。
開店当時にチラシを配った時よりも、少しだけ緊張した。通りの角に立つ客引きのお姉さんがちらりとカヲルを見た。カヲルは客引きの人と目を合わせないようにしながら、チラシを配り始めた。
「えー……メイド喫茶アリスです。どうぞよろしくお願いします」
チラシを出すと目の前のサラリーマンが立ち止まり、カヲルをじっと見つめた。カヲルはサラリーマンに微笑みかけ、言った。
「よろしくお願いします」
サラリーマンははっとし、チラシを受け取って香の邪魔にならない位置に移動して、チラシをじっくり読み始めた。
「メイド喫茶アリスです。どうぞ……」
そこまで言ったところで、OLが手に取り、去っていった。
チラシは思った以上のスピードで捌けていったが、カヲルの周りには人だかりが出来ていた。
「君、何時ごろ店に出てるの?」
「うちで働かない?」
「給料は?」
家業なのに他の店で働くわけがないだろう。そうカヲルは心の中で毒づいたが、にっこりわらいながら周りに集まる者達にチラシを手渡していった。
いつの間にかカヲルの隣には警察官が立ち、ハントする同業者達を追い払ってくれていた。警察官の隣で店のチラシを撒くという良く分からない事になってしまい、カヲルは心の中で深い溜息を吐いた。
そのようにチラシを配るカヲルの前を、池袋若草学園の制服を着たツインテールの少女が通っていった。カヲルは一瞬体を硬直させるが、烈にさえばれなかったのを思い出し、またチラシを配り始めた。
池袋若草学園の生徒はカヲルの丁度斜め前に立っていた合法ドラッグを売っていると思われる少年に声を掛けた。
――確か、十八歳未満の未成年者は合法ドラッグの売買を禁止されている筈だけど。あの少年はドラッグ売りをしているように見える。それにあの少女は、それを知って彼に近付いている。
カヲルは気になり、ちらちらと彼らを見ながら仕事を続けていた。
池袋若草学園の生徒と、少年は何やら言い争っているようだった。そして突然、少年が少女を殴った。
――うちの生徒に何しやがる!
カヲルはチラシを警察官に渡すと、走り出し、合法ドラッグの売人を投げ飛ばした。
「なんてことするのよ!」
少年は地面に叩き付けられ、気を失っていた。路地からは肌の色も顔付きもまちまちな、片言日本語を話す売人達がぞろぞろと出てきた。戦闘態勢に入ったその時、カヲルはふっと後ろが安全地帯になった事を感じた。
――警察官かな?
そう思いながらカヲルは目の前のドラッグの売人を蹴り飛ばした。
細い少女の足のどこからこのような力が湧いてくるのか。売人はカヲルに蹴られると吹っ飛び、後ろにいた売人にぶつかり、二人とも気を失った。
周囲から殺気がなくなり、カヲルはふぅーと息を吐いた。
「君は人形のような出立ちなのに、なかなかやるな」
聞き覚えのある声を聞いて、カヲルは驚き、ぱっと振り向いた。
「良い闘い振りだった。私は近藤真琴だ。よろしくな」
カヲルは呆然としながら、目の前に立つ真琴を見た。ばれる、今度こそばれる。カヲルの頬をつーっと冷や汗が流れた。
真琴はカヲルの胸に付いているワッペンを読んだ。
「カヲル。これは君の名か?」
カヲルは上下に首を振った。どうも真琴はカヲルが香だと気付いていないようだった。
早くこの場から立ち去りたい。そうカヲルは思った。
「良い名だ。いつか時間がある時にでも近藤道場に寄ってくれ。そうだ、若草の学生が」
真琴が壁に寄り掛かりながらかたかたと震えている少女に歩み寄った。
「大丈夫か?」
そう言って真琴は少女に近寄った。
「近寄らないで! あっ、貴女達は、わっ、わっ、わたいのストーカーねっ……よ、寄るな化け物! 音を……音をたてるああ!」
そう叫ぶと少女はカヲルの横を走り抜け、人混みの中へと消えていった。
「なんなんだ……あれは……」
呆然と立ちつくす真琴の側を、カヲルはそっと離れ、人混みに身を隠した。
「あっ、君!」
人混みの向こうから、真琴が呼ぶ声が聞こえてきた。だがカヲルは身を低くしながら人混みを素早くすり抜け、遠回りをしてメイド喫茶アリスへと帰って行った。
3
次の朝、誰もいない教室の席に着きながら真琴は思い返していた。
煌びやかなネオンが昼間も灯る街・池袋。巨大なビル・バベルの頂上は遙か遠くにあり、地上を歩く人々を圧倒していた。
真琴はスポーツ店の新製品を見るためにサンシャイン通りを歩いていた。白いセーラーカラーに二本の明るい萌黄色ライン、同じく萌黄色のリボンは池袋若草学園のトレードマークだ。生徒達はセーラー服に合わせた漆黒のスラックス、半ズボン、プリーツキュロットスカートを購入し、式事の時に着用していた。普段、半数程の生徒は私服で登校し、あとの半分の生徒が標準服を着用している。
真琴のお気に入りはプリーツキュロットスカートだった。私服の殆どはスラックスだった真琴は、自分が買わない形の服であるプリーツキュロットスカートを気に入っていた。
サンシャイン通りに入ると、自分と同じ池袋若草学園の制服を着た少女が真琴の目に入った。だが様子がおかしく、何か揉め事に巻き込まれているような雰囲気だった。
次の瞬間、少女が話し相手だった少年にいきなり殴られた。少女はよろめき、頬を押さえながら壁へと寄り掛かった。
真琴は何も考えずに走り始めていた。その隣を真琴以上の早さで走る何者かがいた。
――え?
真琴は自分の前を走る者の姿を見た。金色の巻き毛、白いミニスカート。華奢な少女が目の前に現れたと思った次の瞬間、池袋若草学園の学生を殴った少年はふわりと宙を舞い、冷たいコンクリートの上に倒れていた。
綺麗な背負い投げであった。投げた者が頑強な男性であったら、また鍛えられたマッシヴな女性であったら普通の事だっただろう。だがミニスカートから伸びた脚はあくまでも華奢で、柔らかい筋肉が付いているものの、鍛えている体には見えなかった。
――私は夢でも見ているのだろうか。
真琴は金髪の少女の後ろを守るように立ち、路地裏から現れ、向かってくる男達を手刀で叩き、気を失わせていた。いつも全方位に意識を向けていた真琴だったが、この日は違った。
後ろにまるで誰もいない草原が広がっているかのように思えた。
安全地帯とはこういう事を言うのだろうか。
真琴は春風のような暖かい空気に包まれていた。
闘う相手ではなく、闘いのパートナー。
真琴が彼女を守り、また真琴を彼女が守る。
華奢なフランス人形のような少女に何故そのような気持ちを抱くのか、真琴は分からなかった。
剣道のライバルは身長が一九一センチもある女性で、同じ建物の中にいるだけでピリピリと緊張するような人物だった。子供の頃から交流試合をしている道場の子で、二人は互いを良きライバルとして認識していた。
だが。真琴はちらっと少女を見た。少女の周りにふわりと風が舞うと、周囲の暴漢達は次々と倒されていった。少女を見ていると体の奥の方が昂ぶった。
――体が熱い。
真琴は今まで感じた事がないような、体の変化を感じていた。頭や、体の表面で感じていた興奮が、体の奥底で燃え上がるような感覚。
――なんだったのだろう、あの感じは。
真琴は教室で一人、考えていた。
――今でも熱い。
真琴はめらめらと燃え上がるような体の熱を不思議に感じた。
夜、何回も素振りをした。しかしそれは消えなかった。冷水を浴びた。だが体はさらに燃え上がった。少女の存在が忘れられない。あまりにも現実離れした女の子だった。名前しか知らない美しい少女。
――カヲルか。
真琴は机に指で「カヲル」と書いた。カヲル。カヲル。真琴は指で何度も書いてみた。この大都会での偶然。恐らくもう会えないのだろう。あの瞬間は人生にただ一度の偶然だったに違いない。
あの服装は親御さんに買って貰った物だったのだろうか、と真琴は考えた。名前のワッペンを付けていたし、もしかしたら私が考えているよりも幼いのかもしれない。何か不自由があって、親御さんが彼女の名前を服に付けるように教育しているのかもしれない。あそこで風のように消えてしまった少女。家まで送った方が良かっただろうか。それはお節介な事だろうか。いや、だが、しかし……。
真琴は彼女とどうにかして関係が持てないだろうかと考えを巡らせた。しかしその考えは全て、もう彼女に二度と会えないかもしれないという絶望に消された。
――何故あの時、無理矢理にでも彼女を捕まえておかなかったのだろう。
だがそれでは生徒会役員としての責任が、真琴を許さなかった。何か様子がおかしかった若草の生徒を放っておくことは出来ない。
だが、もう二度と会えない金髪の少女。運命の出会いだった。真琴は手を組んで、目を瞑った。あの時の事が何度も脳裏に蘇る。そう、春風のような人。
その時、真琴はふわりと柔らかな風に包まれるかのような錯覚を覚えた。脳がリアルに再現しているのだろうかと真琴が思った次の瞬間、ぽんっと肩に手が乗った。
真琴は幻の彼女に触れられたのだと思い、体をぴくっと震わせた。
「おはよう、真琴。何か考え事?」
香だった。真琴の頭の中の映像は、素早く日常へと戻って行った。
「いや、別に」
真琴はくんっと匂いを嗅いだ。柔らかい良い匂い。一瞬、香の気配をあの金髪の少女と間違えるなんて、修行が足りないな。真琴はそう思いながら香を見た。
真琴と香の目と目が合うと、香は頬を赤く染め、視線を逸らしてしまった。
「何? えっと……何か私の顔に付いているかな?」
真琴は御飯粒が顔に付いているのかと思い、口の周りを手で触った。
「ううん、何でもない。ちょっと体調が良くなくて」
香が俯きながら言った。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だから……」
そう言って香は席に着いた。
真琴は香の顔を見ながら、昨日の事を考えていた。
――香に尋ねてみようか。例えば会った事があるかとか、彼女の事を知っているかとか。
そう思った途端、真琴は体がカッと熱くなるのを感じた。
――どうやって聞くのだ。あの白いドレスを着た少女の事を。何のきっかけも私達の間には無く、ただのすれ違いに過ぎないというのに。
そう真琴は考え、深い溜息を吐いた。
目を瞑れば白いドレスが瞼の裏に浮かんで来た。真琴は彼女の事を考えると、不思議な気持ちになった。温かいような、そしてピリピリと緊張するような。彼女は強いのだろうか、と真琴は考えた。全日本の剣道試合で闘ったライバル・鬼龍院武蔵の事を思い出した。背も高く、力も強い鬼龍院武蔵。鬼龍院家は近藤家と同じぐらい古い、剣道の名門であった。剣道の世界で自分と同じぐらいの力量を持っている者は彼女しかいないだろう。だがカヲルからは何か別の強さのようなものを真琴は感じた。
私の知らない世界を彼女は知っている。そう真琴は思った。可憐さと強さを兼ね備えた少女・カヲル。彼女にもう一度会えないだろうか。
当のカヲルが自分のすぐ傍で参考書を読んでいる事を真琴は知らなかった。
――いつかお婿さんになるんだ。そして優しいお嫁さんの家で家事をやりながら、彼女の帰りを待つのが僕の夢。
子供の頃にそんな風に言っていた心優しい兄が、喫茶店経営を始めると言い出したのはいつの頃だったのか。確か祖父から母がビルを貰い、そのビルの地下一階の、倒産した喫茶店の内装がそのまま残っていたのを見た時だったような気がする。
高校卒業と共に調理師免許を取得した兄は、すぐに喫茶店経営を始めた。蜘蛛の巣が張っていた店舗を兄妹二人で力を合わせ綺麗に片付けた。
残っていた重厚な調度品。深い焦げ茶色の柱。クリーム色の天井。祖父がプレゼントしてくれたアンティーク食器と、会社役員をしている伯母がプレゼントしてくれた紅茶を元に、兄は小さな店をオープンさせた。
最初は人が雇えなかったので、店の半分以上を使わず、兄菊二郎一人で切り盛りしていた。香は兄を助ける為に家事をこなし、家を支えた。
母親は帰って来ない日が度々あった。そして久しぶりに帰って来ると、多くの貢物を持って帰って来るか、莫大な借金を作ってくるかどちらかだった。
兄はビルの権利書を貸金庫に預け、母親が担保に使わないように手配した。そして最愛の母親がカジノで作ってくる借金を返済し続けていた。
お店は兄の働きにより、少しずつ良くなっていった。メニューはブレンド珈琲とアッサム紅茶だけだったのだが、それが次第に増えていった。その頃、兄の経営手腕に目を付けた銀行員が、借金を減らすためにもメイド喫茶にしたらどうかと助言をした。兄は数日考えた後、メイド喫茶に変える決心をした。
池袋には三百店舗を超えるメイド喫茶が乱立していた。メイド喫茶は人件費が高かったが、価格も普通の喫茶店より割り高だった。喫茶店は擬似コーヒーを出す百円コーヒー店、バーガーとセットで百五十円コーヒーを出すジャンクフードショップ、二百五十円コーヒー店から一杯千五百円の高級コーヒー店。そしてその価格帯のさらに上位に一杯三千円のメイド喫茶があった。
メイド喫茶は風俗店と喫茶店の中間の店だった。中間とはいえ、喫茶店よりも風俗店として求める客が多いのも確かだ。客との揉め事もその分、増える。それを一人で切り盛り出来るだろうか。そう兄は香に呟く事があった。大金を稼ぐには、それなりの対価が必要であった。
いつか武器を手に取り、闘う日が来るのかもしれない。兄は子供の頃、誕生日プレゼントに貰った日本刀をレジの裏側の隠し扉の中に閉まった。それを香は少し心配しながら、そしてもう一方では兄を心強く思いながら見ていた。
祖父に頼めば警備員を配備してくれただろう。だが父親から独立しようとする母親の希望を叶えてあげたいと兄は言った。祖父の協力を、兄は自分から願う事はしなかった。
私が店を守るのだ。そして我が家を支えるのだ。小さなビルと、小さな店を守る。そしてちょっとギャンブル癖がある優しい母親と、まだ小さいお前を支えて生きていく。だから大丈夫。家計は心配せずに、学業に励みなさい。
そう言って兄は香が私立若草学園に入ることを支援してくれた。
私立の中高一貫校の学費は高く、土方家が入学するには金銭的に精一杯であった。だが兄は借金をして大学進学率の高い若草に、彼の母校である若草に、香を入学させてくれた。香はその兄の気持ちに応える為に勉学に励んだ。
――それなのに。
香は参考書を見つめながら、溜息を吐いた。
参考書の文字が浮き上がり、訳の分からぬ文字となって目の前で踊りまくる。笛と太鼓の音が、頭の中で繰り返し流れていた。勉強に集中出来ない。心のどこかが、抑えても抑えても興奮していた。
香はちらりと真琴を見た。澄ました表情で椅子に座っている真琴を見て、香はふぅっと息を吐いた。
――昨日の、メイド服のカヲルが私だって、真琴は知らないんだ。
あの時の感覚はなんだったのだろう。そう香は考えた。体と体が一つになるような妙な感じ。
香は池袋というサービス特区に暮らし、一時も油断せずに生きて来た。子供の頃から祖父や、祖父の家に居たボディーガードのニイさん達や、絵美の父・斎藤守に武術を習い、自分の身は自分で守れるようにと言われて生きてきた。
香は子供の頃から力が異常な程強く、すぐに物を壊してしまったり、飼っている動物を絞め殺してしまう事が何度もあった。愛するペットが亡くなってしまい大泣きしていると、祖父が香を抱き上げ、力を加減するように風船を渡した。香は子供の頃、何度も風船を膨らませては割り、膨らましては割るという行動を繰り返し、力の加減を覚えた。
大人達はそんな香に真剣に武術を教えた。人を殺さない力加減。それは香にとって必要な知識だった。
「香、わしも子供の頃、一生懸命風船と格闘して力加減を覚えたものだ。この力はわしら土方家に伝わる秘密の力なのだよ。神鬼と呼ばれておる」
祖父・土方源は幼い香を肩に乗せ、そう言った。
「じんぎ?」
そう訊ねてくる香に源は微笑んだ。
「そうじゃ。わしには七人の子がいるが、誰一人として能力は現れなかった。その子供達にもなかなか現われず、やっと最後に生まれた香に現われたのだ。その力は天下を取れると言われておる。良いことにも、悪いことにも使える。その使い方はお前が決めるが良い」
「てんか?」
「あの青い空の下、全ての事だ」
香は祖父の肩に乗りながら、青い空を見上げた。そしてその空の下には巨大なバベルがそびえ立っていた。
それから暫くして、母・七海が祖父と対立し、世話になっていた祖父の家を飛び出した。そして祖父に財産分与されたビルに住むようになった。
だが祖父は子供達には武道を習わせ続けるよう七海に言った。それは七海も了承し、菊二郎と香は祖父の家にある道場に通った。香は武道の能力を開花させ、いつしか兄・菊二郎を越えた。そして十四歳になる頃には土方家のボディーガードを鍛える立場になっていた。彼女はその訓練の中で力加減を体に覚えさせ、その頃には小さな子猫を抱く事も出来るようになっていた。
そんな香でも池袋は緊張感漂う街だった。
繁華街には多くの私設警備員やならず者が歩いていた。富豪の奥様を守る者、銀行を守る者、有名人の子息を守る者、喧嘩を売り歩く他地域出身者、そういうならず者を懲らしめ排除する町内会警備員、恋人の少年を守る少女、合法ドラッグを売りさばく者、そしてドラッグにのめり込み、依存する者。
二十四時間光り輝くバベルと、一昔前の街灯に照らされたバベル周辺のビル街。光と闇はまさに豊かさと貧しさを表していた。
香も何度かいきなり手を捕まれ、車の中に引きずり込まれそうになった事があった。だが小さいとはいえ、香に力勝負で誘拐犯が勝てるわけもなかった。誘拐犯の腕は鈍い音と共に外れ、驚きと恐怖に包まれた誘拐犯は即香の手を離し、去っていった。彼女はそれから気を抜く事無く、街を歩くようになった。
――でも、あの安心感はなんだったのだろう。
香は頭に入らない参考書を見つめながら考えた。あの瞬間。背中が守られるような、絶対的な安心感を覚えた。緊張した空気がふっと軽くなる。生まれて初めて感じた安全地帯。
そしてそこに真琴がいた。
――だけど、私がメイド姿をしていたのを真琴に知られたら!
香はさっと青ざめ、俯いた。そしてちらりと隣に座る真琴の顔を見る。道場の師範を目指している真琴は硬派で、恋愛とか、甘いお菓子のようなフリルとかが嫌いなのだ。そんな一本気な真琴が香は好きだった。
生きるために武道を習った香とは違う、競技としての武術を極め、師範になるために練習を欠かさない真琴。殺意のないルールの中で生きてきた彼女の世界と、自分の生きる世界がなんと遠いことか。
香は祖父の道場で習った武術を思い出した。護身術として教わっているものの、その殆どが相手の急所を狙い、息の根を止める技だった。殺される前に殺せというのが絵美の父・斎藤守が香に教えてくれた教訓だった。池袋で生き残るには先手必勝だと絵美の父は教えてくれた。
確かにその考えは重要だ。絵美の父も香の身を心配してそう教育してくれたのだろう。
だがその考えに香は疑問を覚えた。殺さずに済むならその方がいい。
母・七海がYAKUZAの家を飛び出し、一般人になろうとした強い意思。それがどれ程大変なのかは母が一番知っていると香は思う。母は第七子であったが、家族にとても大切に育てられた。将来を期待され、帝王学を学び、「表の会社」のカリスマとなるべく育てられた。メイド達に囲まれ、女王として生きるように教育され生きてきた。だが母は一族から離れた。裏の家業・YAKUZAを解散させるよう何度も父・源を説得した母・七海。だがその組織の巨大さと行く場所のない末端の部下達を切る事が出来なかった心優しい源は、結局、組織を解散させなかった。いつかYAKUZAを解体し、まっとうな組織にすると七海に夢を語っていた源。しかしそんな源の夢物語が、七海を離反させる結果となってしまった。
自分はどうだろうと、香は自分自身に問う。自分は母の望みを叶えられるのかと。ずっと祖父の道場に通っている自分は、まっとうに生きられるのかと。一生、人を殺めずに生きていけるのだろうかと。
香は手を見つめた。道場に通っているお陰で、人を殺さずに済んだ、この両手。祖父譲りの馬鹿力・神鬼を宿したこの体。一昔前はこの力を受け継いだ者が池袋組を継いだという。だが祖父は微笑みながら、香に一般人として生きろと言った。爺の儚い望みなのだと言った。その微笑はどこか悲しそうだった。
「すげぇ!」
教室の端から歓声が上がった。ノートパソコンでネット動画を見ているクラスメイトの一人が「これ近藤だろ?」と言った。
真琴と香は彼らに近寄り、PCに映し出されるネット動画を覗き込んだ。
ひらりと舞う見覚えのある白いメイド服。香は顔を真っ赤にした。自分だ。カメラからは上手く下着だけが見えないように撮ってある。
カメラのアングルが変わり、真琴が映った。竹刀ではなく、手刀で相手を倒していた。ひらり、ひらりと長い黒髪が舞う。まるで武道の神が舞い降りたかのような美しさだった。
――あぁ、こうして私の背中は守られていたんだ。
香はうっとりと闘う真琴の姿を見た。無駄がない動き。前の暴漢を倒しながら、後ろの少女達を守る事を忘れていない真琴は、水が流れるように柔らかく体を動かした。
――この時、私は守られていたんだ……。
背中を守られる至福。緊張から開放される快感。香はじっと動画を見つめていた。
「すげぇな、近藤。お前って強いとは思っていたけど、ここまでとは思わなかったよ」
クラスメイトの男子は何故か自慢気に言った。
「うむ。日頃の鍛錬がものを言うのだ。皆も訓練すると良い」
真琴はにっと笑った。
「それにしてもカヲルちゃんもつええぇー。日本最強のメイドじゃね?」
真琴は机を指でとんっと叩いて、クラスメイトに聞いた。
「カヲルを存じておるのか?」
真琴の脅すような声の響きにクラスメイトが少したじろぎながら、パソコンを指した。
「あぁ、新しくメイド喫茶アリスに入った娘だよ。これはそこのサイト」
「メイド喫茶アリス? それは香の……」
香はとっさに真琴の口を塞いだ。
クラスメイトが不審そうに香達を見た。
「ん? メイド喫茶アリスがどうかしたのか?」
「いや、なんでもない。なんでもない」
真琴の口を塞ぎながら、香はははっと笑った。
そして香は真琴を連れて教室を出た。
「どうしたんだ、香。アリスはおぬしの兄の店だろう」
「いや……いろいろ訳があって」
「アネキ、知らないのかよ」
そこに珍しく朝から登校してきた真琴の弟・烈がいた。
「今、メガネちゃんの家はちょっとした有名スポットなんだぜ。新しく入ったメイドのお陰でね。なっ、メガネちゃん」
「相変わらず失礼な奴だな! 私の名前は土方香だ。名前で呼んで欲しいね」
烈は一瞬驚いたような顔をし、それからくすくすと笑った。
「香……香か。あのメイドと名前が一緒なんだ。あはははは! 世紀の一大ジョークだ!」
――同一人物だっての!
香はむっとしながら、烈に突っかかった。
「何がおかしいんだよ」
「だって片や絶世の美女、片やメガネちゃんだもんなー。もう少し色気をメイドさんに分けて貰えよ、メガネちゃん」
「失礼な!」
そう言いながら香は、もう一度心の中で「同一人物だっての!」と毒付いた。
「彼女は香の実家で働いているのか?」
腕をぎゅっと捕まれ、香はびくっと震えた。大丈夫、ばれない。香はそう心の中で何度も呟いた。
「うん、まぁ……そう」
「今、ちょっとした有名人なんだぜ、あのメイド。どこの企業も自分の所に引き抜こうと画策しているのさ」
「へぇ、そこまでは知らなかったな。あの娘、入ったばかりだって兄さんが言っていたけど」
――でも自分だけどね。
そう香は心の中で呟いた。
教室に入った烈は自分のノートパソコンを開いた。
「ほら、これだよ。メイド喫茶アリスのホームページ」
パソコンの画面には木陰で本を読むエミリとカヲルが映し出されていた。
烈がカヲルをクリックすると、「ごきげんよう」と香が話しかけてきた。
「何これー?」
一番驚いたのはカヲル本人である香であった。確かにエミリに「ごきげんようって言って」と言われ、声を録音した事はある。だが木陰で撮影した覚えはない。
「コンピューターグラフィックだよ。録画映像でないのは残念だがね。昨日の深夜十二時に新装オープンしたのさ。メガネちゃんは知らなかったのか?」
「う、うん。業者さんにまかせっきりだから。凄いね。注文以上の出来だと思う」
サイトを管理しているのはエミリの筈だが、一体いつ作ったのだろうと香は思った。
幼少の頃から自分の傍にいる絵美。いつも気を使って先の先まで手配してくれる絵美。大学に行きながら、メイド喫茶を手伝ってくれる絵美。彼女はきちんと寝ているのだろうか。本当はもっと勉強させた方が彼女のためになるのではないだろうか。何度もそう言ったが「大丈夫ですよぉ」と笑って返事してくれる年上の可愛い幼馴染。私は、私の家族は彼女の能力を浪費させているだけなのではないかと、香はいつも思っていた。そう言うといつも絵美は「私のファミリーは」と言って、絵美流土方七海ファミリー論を話し出すのだけれど。
「このサイトにさっきの動画がアップされていたわけ。前にもちょっと忠告したけど、今後はマジで他人に家業の事を言わない方がいいぜ、メガネちゃん。今、カヲルのファンが急速に増えているから、面倒に巻き込まれるぜ。いきなり怪しい契約書類を突きつけられたりな」
「ご忠告をどうも。大丈夫だよ。家業は兄がやっているだけで、全然タッチしてないからね。私は家事専門」
いつの間にそんな事態になっていたのか。カヲルとしてバイトしている事が学校にばれたら退学なのである。兄が借金までしてこの学校に入れるようにしてくれたのだ。そして香は成績で取れる奨学金を目指し、いつも学年で十位以内を取っていた。その事も評価され、生徒会の役員に選ばれたのだ。
池袋若草学園。都内の、いや国内のサービス業を家業とする家庭の子女が誰でも目指すエリート校。そこで作られる人脈は並みのものではなかった。サービス科には国内外から受験者が集まり、カジノ王の娘、ホテル王の息子など、著名人の子女が集まっていた。香は最初、サービス科を目指していたのだが、兄に大学に進学し経済学部を目指すように言われ、普通科に入ったのだった。サービス科も大学に進学しないわけではなかったが、多くの者は家業を継いだり、就職していった。そして大学に進学する必要がないと親が考えるだけの特別教育をサービス科は行なっていた。
一方普通科は大学進学を目標に掲げ、エリート育成に努めていた。学業に専念するため、バイトを禁止するのは当たり前の事だった。年に何人かバイトをしているのが発覚し、親と面談があり、サービス科に転入するだけの能力があると認められた者は転科が許され、ただ金銭目的の為だけにバイトをしている生徒(学業に専念出来ないと判断された家庭の子供)は保護者と相談の上、退学させられていた。
――学校を退学させられるのも、韓麻理亜が牛耳っているサービス科への転科も嫌だな。
香はふぅっと溜息を吐いた。
「メイドか……」
パソコンの画面をまじまじと見つめている真琴が呟いた。
「この白い服装はメイドの格好なのか? メイドというのは家政婦なのだろう? 家政婦とは着物と割烹着を着るものだと思っていたが」
「ちょっ、アネキ。家政婦といわゆるメイドは別物だって」
烈はげらげら笑いながら言った。
「西欧で使用人っていうのは昔から存在しているけれど、十六、七世紀頃、女性使用人の名称が確認されるようになったと『図解 メイド』に書かれている。それから女性の使用人も増えていき、一六六七年には『女中仕事大全』という本が出版されるほどになった。王侯貴族の生活を支えるために、メイドなどの使用人達が働かなければ家を維持する事は出来なかったのさ。また中流階級が力を持ち始めると彼らも使用人を雇い始める。それによって裾野が広がったわけ。
日本の家政婦はどちらかというと家族みたいなものだけど――今は企業から派遣される家政婦が増えたけど、昔は知り合いの子供が奉公に来ていたわけで――海外では良家の子女が行儀見習いに来ている場合もあるけど、労働者階級の人がなる場合が多かったんだと。
そしてここ――いわゆるメイド喫茶――でいうメイドっていうのはそのイメージを日本風にアレンジしたものさ。日本でのメイド喫茶の歴史は古くて、二〇〇一年三月にコスプレ喫茶の『カフェ・ド・コスパ』が『CURE MAID CAFE’』というメイド喫茶になった頃から始まったと『ウィキペディア』には記されている。一億総中流と言われた時代が終わり、格差社会って言葉が流行った時代だね。
中流家庭の子女達は親の代の三分の一から五分の一の所得に落ちた。上の世代のように専業主婦を養う程の収入を得る事も出来なくなった。だが子供の頃に母親から受けたサービスだけは忘れられない。
そこで生まれたのが客を主人として仰ぎ、過剰にサービスするメイド喫茶と執事喫茶さ。サービス慣れした中流家庭の、中でも自分自身が中流から没落した者達がこぞってメイド喫茶、執事喫茶を利用したってわけ」
「ふむ。そこまでは分かるが、なぜこの……こほん……カヲルはこのようなミニスカートを履いているのだ? 西洋のメイドはクラシカルなロングドレスか、膝下のスカートなのではないか?」
「それは日本のメイド喫茶が風俗とリンクしているからさ」
「風俗? 香の家は風俗だったのか?」
真琴がきっ、と強い視線で香を見た。
「いやいやいやいや、うちはまっとうな」
香はやや声のトーンを落として、
「メイド喫茶でぇ、風俗じゃなくて、ただの喫茶店ですから」
と言った。
「ふむ」
真琴は少し疑わし気に香を見た。
「一部の県ではメイド喫茶を風俗とみなして特別自治法で縛ったりしたけど、このサービス特区の池袋では池袋にあるだけで、サービス業特別法の管理下に置かれるから。風俗とかそういう概念というか、法の縛りがないのさ。その中でもメガネちゃんトコは世にも稀なサービスが良いだけの普通のメイド喫茶だけどな」
「うん、銀行の人にも風俗的なサービスを入れたらどうかと助言されたって兄さんが言っていたけど、断ったみたいだ。うちは純喫茶から始まったから、その時のお客さんも来るからね。ちょっと店員の格好が可愛くて、サービスが良い喫茶店に留めようって兄さんは考えたみたい。風俗のサービスを取り入れるのは簡単なんだけどね。特に池袋では書類提出も必要じゃないし」
「風俗のサービスとは、どういったものなのだ?」
真琴が真面目な顔をして香を見た。香は顔を真っ赤にして真琴を見た。
「そ、そんなの社会の授業でやっただろ! そ、その……」
「パンツ履かないで店に立つとかだよ。サービス業特別法ぐらい頭に入れておいてくれよ、アネキ。うちの道場も特別法エリア内にあるんだからさ」
真琴の顔は一気に真っ赤になった。そしてこほん、と咳をした。
「う、うむ。そうだな。し、しかしそんな破廉恥な店が多いのか」
「この地区はそういう風俗業も一般化する特別な地域だからな。稼ごうと思ったら法の範囲内であれば、そしてきちんと税金を払うのであればなんでも許されるのさ。だから豊島区は世界有数の豊かな都市になったんだ。そんな地区の中で、メガネちゃん家とか、うちの道場とかは珍しいけどな。でも風俗だけじゃ人は飽きてしまうのさ」
「うむ、穢れた人々を修行によって浄化する。我が道場は池袋には必須と言えよう」
真琴は真面目な顔でじっと香を見つめた。
「香の家もな」
そして声を潜めながら、真琴は言った。
「その……で、カヲルというのはいつからいるんだ?」
「うん? 一昨日かな。ちょっと一昨日、トラブルがあってさ。バイトが絵美以外全員辞めてしまったんだ。それで急遽、ネットの知り合いが紹介してくれた娘を雇ったって、兄さんが言っていたよ」
「香は……その……彼女と話した事があるのか?」
「まぁ、挨拶程度はね。店長の家族だしさ」
「俺も話したぜ」
烈がにやにやしながら言った。真琴はちょっとむっとした表情で烈を見た。
「お前が? いつ?」
「開店した時、友達に誘われてさ。友達が開店パーティーの招待を受けたんだ」
「ふうん。また軟弱な友達と付き合っているのだろう。そもそもメイド喫茶など軟派な店に行くなど」
そしてパソコンの中のカヲルを指しながら真琴は続けた。
「もう少しスカートの丈を長くした方が良いぞ。そう菊二郎さんに伝えるといい」
「いや全く仰る通りで」
そう香は苦笑いをしながら言った。
その時、廊下からぱあんっと人を叩く音が聞こえてきた。ホームルームが始まりそうな騒がしい時間帯に、誰かが揉めている。クラスメイト達が席を立ち、廊下を覗いた。
「翼を侮辱するな!」
隣のクラスの女子達が喧嘩しているようだった。
「だってそんなに骨みたいになってさ。その異常な痩せ方、薬でもやっているんじゃないかって言っただけでしょ? 違うなら否定してみれば? ねぇ、相沢さん」
廊下を覗いた真琴が、あの時の、と呟いた。香は心の中で真琴に同意した。
――あの娘、相沢って呼ばれた娘、ドラックの売人に絡まれていた娘だ……。
香は注意深く喧嘩の様子を見守った。
「わ、私、薬なんてやってないわ! 言いがかりはやめて」
擦れるようなか細い声で相沢と呼ばれた少女が反論した。香が街で会った時よりも落ち着いており、視点が定まっているようだった。
――でもどう考えても薬をやっているよなぁ。
香は幼い頃、祖父に連れられ何度も麻薬更正施設へと行った事があった。この学校のボランティア先にも麻薬更正施設は指定されていた。
池袋では薬の扱いが他の地域とは違い、池袋の住民達は子供の頃から薬の種類を覚えるのが常識となっていた。
他の地域とは違う『合法ドラック』。
他の地域とは違う『違法ドラック』。
だがそのどちらも未成年である十八歳以下の子供に販売するのは禁止されていた。合法ドラックであっても選挙権を持つ十八歳からと決まっているのだ。
「ふん、信じられるものですか。山崎さんもこんな娘と縁を切った方がいいわよ。きっと事件を起こすから」
山崎は顔を真っ赤にし、声高に言った。
「翼はそんなこと…… !!」
その時、視線をふるふると細かく震わせ、興奮した相沢が、自分を罵っていた女子に飛び掛った。
「翼!」
「わ、わあし、薬なんて、くすいなんて!」
相沢は罵っていた女子の首をぐっと締めた。
「翼、やめて! 翼!」
「わあし、やってない!」
「分かってる! 分かってるから!」
山崎と呼ばれた少女は相沢の両腕を押さえつけた。首を絞められた少女は呆然として廊下に座り込み、涙と涎を流していた。
そこに香のクラスの担任がやってきて、廊下に出ている生徒に教室に入るよう指示した。相沢は山崎に肩を抱かれながら、教室へと入っていった。首を絞められた生徒はふらふらと歩きながら、保健室へと向かった。
ドラッグの売人に絡まれていた少女・相沢翼。あの様子ではかなり薬物依存が進んでいるのだろうと香は思った。
放課後の生徒会室。香は急ピッチで各部活から挙がってきた予算申請をまとめていた。去年との額に大きな違いは無いか、ある場合はその理由は何か、チェックしなければならなかった。メールで送られてきた申請書類は自動的にデータベースへと纏められる。だからといって各団体が全て正しいわけではない。0が二つ足りない華道部、天体望遠鏡が欲しいと言って想定の範囲外の金額を要求する天文学部、部室をリフォームしろと要求してくる運動部連合。問題だけを抜き出し、審議に掛ける問題はピックアップし生徒会会議用の書類に纏める。明らかな間違いと思われる請求には訂正メールを送る。予算が決まる期日は二週間後だ。それまでに全ての問題を片付けなければならない。
――華道部は書類ミスだから良いとして、天文学部のこれは通らないだろうなぁ。
池袋若草学園はサンシャイン 60ビルの中にプラネタリウムがあった時代から、天文学部が盛んであった。プラネタリウムや天体望遠鏡を作っている企業も若草学園に出入りしており、天文学部の学生はよくプラネタリウムに研修に行っていた。最新技術に触れれば、自分達が使っている機材も最新の物にしたいと思うのは当たり前である。だがそれは高校の天文学部が使う機材としては高価すぎる代物だった。
そして一番の問題は運動部連合が提出してきた部室のリフォームである。池袋若草学園は教室も、部室も、グランドも、プールも、一つのビルの中に入っていた。だがそこで昨年、運動部員が煙草を吸い、ぼやを出したのだ。当然、犯人の生徒四人は退学となった。そのぼやの跡がそのまま放置されているのだ。理事長は生徒達に反省を促すためにそのままにしていると言ったが、明らかに予算不足の言い訳であった。池袋若草学園は八年前に学校を建て替えたばかりなのである。
――いっそペンキを買ってきて生徒の手で塗り替えた方が早いんじゃないか。
香は申請書を見ながらそう思った。だが若草の生徒達はどちらかというと裕福な家庭の子供が多いのだ。そのような大切に育てられた生徒達が、ペンキを持って学校の壁を塗り替えるなど思い付く筈がなかった。
――無理か。
お金は無い。だがぼやの跡をそのままにしておいて良いわけがない。しかし無い袖は振れないのだ。
「真琴君、ちょっといいか?」
隣で前回の会議の書類を纏めている真琴に、生徒会長の芹沢エカテリーナが声を掛けた。
「先日、サンシャイン通りでいろいろと立ち回ったようだな」
エカテリーナはにやっと笑い、デスクの上にあるノートパソコンを起こし、喫茶アリスのサイトにアップされている動画ファイルを開いた。
「これは顔にモザイクが掛かっているが、君だろう?」
「はい」
動揺しながら返事をする真琴の姿を、香は横目でそっと見ていた。別に運動部の者が喧嘩した所で退学になるような学校ではない。なにせ喧嘩するつもりがなくとも揉め事に巻き込まれるのが、この池袋という街である。そして池袋若草学園はそのど真ん中に建っているのだ。だが運動部連盟から苦情が来る事はあった。
「ふむ、状況を説明してくれるかね」
「はい。サンシャイン通りで我が校の女生徒が男性に絡まれておりました。男性が女生徒に暴力を振るったので、介入いたしました。それから恐らく男の仲間と思われる者が闘いを仕掛けてきましたので、出来る限り被害を最小限に抑えて対応いたしました」
「うむ。私達が予想した通りだな。良くやった。そこでだ。真琴君はこの男性や、その組織の事は知っているかね?」
「いえ」
「ふむ。分析の結果、どうもこの男達は違法にドラッグを販売している者のようなのだよ」
「違法な売人ですか」
「ああ」
エカテリーナは生徒会室にいる全生徒会役員達に聞こえるように言った。
「この池袋は他の地域と違い、ある程度の薬物使用が認められている。だがそれらの薬は役所と警察が厳しく管理している。役所が発行している個人カードが無ければ買う事が出来ず、また警察に届け出なければ売人として活動する事は出来ない。その売買の記録は個人情報カードに記録される。売人グループは保健所の管轄下にある合法ドラック店で薬を購入し、売りさばく。売る時にも売人免許を提示し、購入者が買える範囲――購入者の購入量の限度をIDチップから読み取り一日の限度許容量を売る」
エカテリーナはホワイトボードにマジックで概要を書いた。
「この辺は知っているな」
エカテリーナが真琴を見ると、真琴は少し視線を逸らした。
「覚えているかね? 一応、池袋地区では小学校の頃に社会で習う内容だが」
真琴は俯きながら、頭をかいた。
「いや……あの……社会は苦手で」
「あら? 近藤さんに得意な科目はおありですの?」
麻理亜がほほっと笑いながら言った。
「ん? この間の模試で、倫理はおぬしの成績を上回っていたが?」
麻理亜がぐっと息を詰まらせた。香はくすりっと笑った。
「そこまで」
そうエカテリーナは言って、ホワイトボードをこんこんと叩いた。
「そしてここからが重要だ。この池袋地区は他の地域より麻薬の販売量も消費量も桁違いに多い。しかしそれは先程言った完全管理体制とセットになっている。また十八歳以下の子供は、例え労働者であってもドラッグを売る事も、使う事も出来ない。これはこの池袋の掟である」
エカテリーナはドンっとホワイトボードを叩いた。生徒会室に緊張が走った。
「だがこの男達は掟を破り、あろう事か我が校の生徒を毒牙に掛けようとした。許しがたい行為であり、我が校への挑戦状と言えよう。警察もこの男の行方を追っているが、どうも他の地域から来た者らしく、足取りが掴めないようだ。我々もパトロールを強化し、このような違法売人の発見に助力していきたい」
そこまで言ってエカテリーナはこほんっと咳をした。
「えー、一応、危険な事には巻き込まれないないよう、危なくなったら逃げる、また所轄に連絡するなどの方法を取るように」
生徒会役員達ははいっと返事をした。香はちらりと真琴を見た。真琴は目をきらきらさせながら、香を見ていた。
――あぁ、真琴はやる気満々だよ。
香ははぁ、と溜息を吐いた。
鞄をロッカーにしまい、香はリボンタイを着けた。
――これを着けると少し緊張するな。
香はリボンタイに着いている深紅のルビーに触れた。ルビーが光ると、香の体が光に包まれていった。薄い光の中で制服はただの”点“になり、ゆっくりと白いメイド服に再構築されていく。体がふわりと浮き上がり、足元まで完璧なメイドに変身する。メガネを着けたちょっとトロそうな黒髪・三つ編みの女子高生が、輝くようなメイドに生まれ変わる。だが香自身はそのような自覚はなく、ただメガネを外し、地毛を元の金髪に変えただけで、他の人の態度が余所余所しいのはこの白いメイド姿だからだろうと思っていた。
カヲルはロッカー室を出て、テーブルを拭きながら、エミリに話しかけた。
「エミリ。サイトの更新、順調なようですわね」
「えぇ。カヲルもご覧になりました?」
エミリは自信満々な笑みを浮かべてカヲルを見た。
「さすがですわ。香様……こほん、カヲルの美しい流れるようなフォルム。ザコがまるで人形のように飛んでいきましたわ~。うちの父など何度もあのビデオを観ては涙ぐんでいて……。素晴らしい成長ぶりだと申しておりました」
「いや、あのだね。その……あんなに堂々と私の顔をネットにアップして学校にばれたらどうするの」
「あら、どなたかカヲルが誰か分かった人がいましたか?」
「いや、いなかったけど」
「なら問題はありませんわ」
エミリがにっこりとカヲルに微笑んだ時、扉が開き人が入ってきた。
「申し訳ありません、まだ準備中で……あっ、お爺様」
応答した菊二郎が驚きの声をあげた。
「久しぶりだの、菊二郎。アールグレイとスコーンを頂けるかな?」
「かしこまりました」
「源ジイ……じゃなかった、お爺様、いらっしゃいませ」
カヲルは源ジイと呼んだ老人に、子供っぽく、にぱっと笑い掛けた。
土方源。菊二郎と香の祖父であり、七海の父。ただのYAKUZA組織であった池袋組から分離した「土方」を巨大コンツェルンに成長させたカリスマ会長である。昔は武闘派YAKUZAとして恐れられていた彼だが、今や世界の億万長者に名を連ねるジェントルマンである。
現在、土方は七海の姉弟達が会社を運営しており、少し時間が空くようになった源は、アリスの常連としてちょくちょく顔を出していた。
「う、うむ。香が手伝っていると聞いて、いてもたってもいられなくてな。絵美、この間は開店パーティーに来られなくてすまなかったのぉ」
源は少し頬を赤く染めながら、カヲルから視線を逸らし、エミリに礼を言った。
「とんでもございません、会長。あっ、申し訳ありません、源様」
エミリは深々とお辞儀をした。
「やっと……やっと香の晴れ姿を見ることが出来た。嬉しいのぉ」
そういって源はエミリの方に顔を向けながら、ちらりとカヲルを見た。
カヲルの頬が大好きな祖父に会えた喜びで、すこし赤くなっていた。白い肌に赤い唇が益々映え、唇の隙間から漏れる吐息はどんな者も魅了しそうな媚薬のようであった。
源は目を瞑り、ふるふると震えながら、電子ノートとペンを掴んだ。
乙女ちっく☆ ラブちっく☆
宝石キラキラちりばめた 白い塔立つ池袋
わたしたちは戦う乙女 嵐のまちに降り立つ天使
ふたりの手と手をつなぐとき 胸のハートがドキキュンラブ☆
あなたはあたしの魔法の剣 るるららチェキチェキ剣ふれば
悪い子なんておしおきよ
正義の使者 ファナティック・ロリータ 見参!
源が詩を読み終わると、菊二郎は複雑な表情を、カヲルはきょとんとした表情を、エミリはにこやかに笑いながら手を叩いた。
「素晴らしいポエムでございます。源様」
「うむ。今のポエムはカヲルに捧げよう」
「ありがとうございます、お爺様」
ちょっと良く分からなかったけど、という言葉をカヲルは飲み込んだ。
「ところで、開店時間前に来たのには訳があっての、エミリ、パソコンを持ってきなさい」
「はい」
エミリはカウンター内に置いてある私用ノートパソコンを持ってきて立ち上げた。
「アリスのサイトにアップされている動画の元ファイルはあるかな」
「はい」
エミリは動画ファイルをクリックした。
「警察は来たかな?」
「いえ、まだです」
「ふむ。来たら適当にあしらっておきなさい。わしから言うよりも良いだろう。土方が出ていっては、七海が可哀想じゃ」
源は鼻の下に生えた髭をいじった。仕立ての良いスーツにステッキ、銀色に輝く頭髪。一見物静かな老人に見える源だが、その体躯の良さはスーツの下からも滲み出ていた。源は深い溜息を吐いた。
「カヲル、来なさい」
カヲルは源の足元に跪いた。その金色の髪を、源は優しく撫でた。
「心優しいわしの孫娘よ。この事件の事で知っている事を話しておくれ」
源のごつごつとした長い指が、カヲルの柔らかい髪の毛をすいた。
「はい。わたくしがチラシを配っておりましたら、我が校の生徒が目の前で男性に暴力を振るわれていました。痴話喧嘩にしては過度な暴力でしたので……手を出してしまいました」
「驕りか?」
カヲルは顔を真っ赤にして頷いた。
「……はい」
「うむ、正直で宜しい。見て見ぬふりをするのも、池袋で生きていく手段だからな。まぁ、しかしながらこのビデオを見ると、この女子も」
そう言って源は真琴を指した。
「カヲルと同じように体が動いてしまったようだ。行き過ぎた正義感は身を滅ぼす。そう斎藤はお前に教えたと思う」
カヲルは瞳を潤ませながら、こくんっと頷いた。何度も絵美の父から教わった言葉だ。
菊二郎もエミリも、この言葉を何度も叩き込まれていた。二人は心配そうにカヲルを見守っていた。
「だが、わしはこのような行動を取るお前が好きだよ、カヲル」
「お爺様!」
カヲルは涙を流しながら源に抱きついた。
「うむ。わしも長く生きたその時々で、良い事も、悪い事もしたもんじゃ。しかしカヲル。わしらの『力』は正義のために使われなければならん。長い間、池袋組が存在してきたのも、我らが町民を守り、町民が我らを支持してくれたからこそ。わしらの力はただむやみに振るうのではなく、弱い者を助けるためにあるのじゃ。だからカヲル。自分が正しいと思ったのなら悔いてはならん。自信を持って胸を張るが良い。そして自分が選んだ行動の責任を取らなければならん。
エミリ」
「はい」
「お前はこの動画をネットに流したら、どの様な事が起きると予測した? 隠す必要はない。正直に答えなさい」
「はい。私はカヲル様が倒した暴漢は違法な麻薬密売人と推測しました。この動画をアップする事で密売組織にカヲル様の働き場所が分かってしまうというデメリットがあります。このデメリットから予測される事態は、報復によるビルの放火、待ち伏せによるカヲル様の誘拐などです。またカヲル様のご親友、真琴様に被害が及ぶ可能性も考えました。しかしながらこの動画を発表する事により警察、自治体が動き、麻薬密売組織を壊滅させる、もしくは池袋で仕事をさせない事が重要だと考えました。またカヲル様を密売組織と闘うヒロインに仕立て上げ、有名にする事によってカヲル様を守る盾にしようと思いました」
「それだけではなかろう」
源の瞳がエミリの瞳に映った。エミリはふるっと震え、頭を下げた。
「はい。この事件によるお店のステータスアップ、そしてカヲル様の…………華々しいデビューを…………」
もじもじと答えるエミリに、カヲルが言った。
「デビュー?」
「そうじゃカヲル。エミリはお前の事を思って動画をお店のサイトにアップした。動画がアップされなくても、お前が麻薬密売組織を伸してしまった事実は残る。エミリがアップしなくても、麻薬密売組織はお前を調べ、アリスを突き止めただろう。だからエミリは逆にその事実を利用したのだ。麻薬密売組織を倒す正義のヒロイン・カヲルをデビューさせたのだ」
「正義のヒロイン? 私が?」
目を大きく見開くカヲルに、源はにんまりと笑いながら言った。
「うむ。そして香が麻薬密売人と闘ったのは、土方一族の中で有名な事件となったのだよ。なにせお前のデビューが、最近我々が手を焼いていた麻薬密売組織の者を倒した、とあってはな。それを映像に残したエミリには報奨金が出たぞ――エミリ、それはバンクに入金しておいた。後で確認すると良い――今まで我々も密売組織の者を撮れなかったでな。奴らはフットワークが軽い。だからこそこの映像が重要なのだよ」
源はくっくっと笑った。
「一族会議でこの映像を見た時のあやつらの驚いた表情といったら。カヲルがわしの道場に通っているのは知っていただろうが、このように強く成長しているとは知らなかったらしい」
「カヲル様は源様とお父様の秘蔵っ娘ですから」
エミリが自慢気に言った。
「カヲルが……土方に引き取られてしまう事はないですよね?」
そう菊二郎が不安そうに言った。
「うむ……まぁ、今のところはな。七海の意思を皆尊重しておる」
「わたくしは土方には行きませんわ、お兄様。わたくしにはアリスを守る仕事があります。道場に行くのだけはお母様に許していただいておりますが」
「カヲル様のファミリーはここですものね」
エミリがぎゅっとカヲルの腕を抱いて言った。
「ファミ……まぁ、そんな感じ……ですわ」
カヲルはエミリが使う『ファミリー』という言葉に抵抗を感じていたが、今は言い返すのを止めた。
「うむ」
「ところでお爺様」
カヲルはきっと、源を見つめた。
「その麻薬密売組織とはどういう者達なのですか?」
「うむ。まだ彼らの身元は割れておらん。もしかしたら国籍がない者を使っているのかもしれん」
「国籍がない?」
カヲルは驚き、目を見開いた。
「そんな事が起こり得るのですか? この情報管理社会の下で?」
カヲルは皆を見た。菊二郎はすっと視線をそらせ、源はカヲルを見つめたまま黙っていた。エミリは氷のような瞳でカヲルを見た。カヲルはデータモードのエミリを久しぶりに見たと思った。
エミリ――いやデータは、甘ったるいエミリとは違う、まるで別人のような冷めた低く通る声で言った。
「お金がない者、借金をしている者の中には子宮を貸し、法の外の子供を生む女性がおり、それを組織が買い取るというブラックマーケットがある。優秀な子供には後付けで国籍が与えられ、そこから零れてしまった者は無国籍のまま生き延びさせられる。ある子供は兵隊として貨物のように戦場に輸送され、ある者は違法な仕事の手伝いをさせられる。それが『無国籍な子供達』。彼らは生まれた時からブロイラーのように育てられる。大抵は窓も何も無い地下室で育ち、商品としての教育を受ける。兵隊になるものは戦闘の訓練を。体を売るために作られた者は、生まれたその日から商品としてオークションに出される。
万能細胞が発見され、他人の体を使った臓器の売買は激減したが、兵隊の需要や、幼児買春の需要は減ることは無い。貧富の格差が広がった世界市場で、破産する女性は跡を断たず、子宮貸しビジネスは繁盛し、子供の価値は下がっている。そういう中、闇市場でも子宮貸しビジネスは増え、出産を役所に届けない『無国籍な子供達』が次々と生まれている。
しかし会長、『無国籍な子供達』は資金が豊富な組織でないと購入出来ない筈です。そのような組織が、わざわざこの池袋で麻薬の密売をするとは思えませんが」
「そこじゃ」
源は渋い顔をした。
「わしの元にはある程度の情報は集まってくる。ブラックマーケットにはブラックマーケットのルールがある。だが知り合いはこの池袋に手を出した形跡がない。需要と供給の中でわしらは薬の流通量を決め、完全に調整しているから、皆池袋に手を出す意味がないのだ。末端組織の暴走も考えたが、今のところ、どこの組織もそのような事はないと言っている。それにこの映像」
そう言って源はパソコンを指した。
「この映像に映っている者達は、確かにどの組織にも属していなかった。そしてそれどころか国にも登録すらされておらなんだ……まぁ、コンピューター検索から漏れている可能性もあるが」
データは冷めた目つきをしながら、源に言った。
「世界IDバンクの検索システムはぬるいですから、漏れている可能性もあります。しかしながら十人近くの者が誰もヒットしないとなると、『無国籍な子供達』である可能性が高いですね」
「うむ」
源は厳しい顔をして皆を見た。
「そして今回の麻薬密売組織は、我々池袋組の敵対組織だという事だ」
「YAKUZAですら談合するこの情報化社会に、敵対組織ですか」
菊二郎ははぁっと深い溜息を吐いた。
「ではその組織を壊滅させれば良いのですね」
カヲルが源を見ながら言った。
「源お爺様。それがわたくしの責任の取り方です。この事件にかかわってしまった自分の行動に責任を持ちます。そしてわたくしは」
カヲルはすっと立ち上がり、力強く言った。
「我が校の生徒に手を出す者、そしてこの池袋を荒らす者を許しません」
そのカヲルの姿を見て、菊二郎は驚きと不安を隠せず、エミリはにっこりと笑い、源は幼い頃の七海を思い出すのだった。
「そろそろ開店時間です。この話は止めにしましょう」
そう菊二郎が時計を見て言った。
「うむ。マスター、もう一杯紅茶を頼む。それとスコーンの追加を」
「かしこまりました」
カヲルは店の空気が変わり、いつもの喫茶・アリスが戻ってきたのを感じた。
池袋を守る。そう豪語したものの、どうすれば密売人に接触出来るのだろうか。もしかしたらもう麻薬の密売から手を引いているかもしれない。
だが。
カヲルは真琴の事を思い出した。一緒に闘った真琴。これは自分だけの事件ではないのだ。もう真琴も巻き込まれてしまっている。
私は真琴を守れるだろうか?
暫くは真琴のボディーガードをした方がいいかしらん、と考えた。だがどうやって真琴と接触する? そうカヲルは自問した。カヲルとして真琴を守るのか。それとも香として真琴を守るのか。アリスのバイトを休むわけにもいかない。
カヲルが考えていると、近藤烈が鬼龍院武蔵と共に店に入ってきた。
「こんばんは、マスター。おっ」
烈は源を見て手を振った。
「じいさん、久しぶりだなぁ。源さんだっけ」
「おう、坊主。元気そうじゃな」
「武蔵、こっちは源さん。このアリスの常連さんさ。メイド喫茶になる前からの常連さんなんだぜ。じいさん、こっちは鬼龍院武蔵」
「初めまして、源さん。『メイド喫茶美術館』というサイトを運営している鬼龍院武蔵といいます。よろしく」
「おぉ、あの全世界のメイド喫茶を星で評価しているサイトの管理人さんか。わしもアリスが何位か見に行った事があるぞ。たしか先日、沖縄の『メイド喫茶島娘』を押さえ、アリスが一位になっておった」
「閲覧してくださり、ありがとうございます。その前は八十七位だったのですが、現在はカヲルの評価が世界でトップですからね」
そう言いながら優しく微笑む武藏にカヲルは見つめられた。武藏の茶色い瞳に包み込まれるような錯覚にカヲルは陥った。強引で力強い武藏の愛情。カヲルは顔を真っ赤に染めて、軽くお辞儀をした。
「ふふっ、ボクは毎日通わせてもらうよ。君のハートを掴むまでね」
そして武藏はカヲルの目の前に跪いた。
仕立ての良いジャケットの胸ポケットに刺してあった赤い薔薇を、武藏にすっと差し出され、心臓がとくんっと高鳴るのをカヲルは感じた。
「数多の星よりも、太古から輝く太陽よりも美しい君に」
「はい、ご主人様、そこまで」
菊二郎が二人の間に入ってきたので、カヲルはハッとし、後ろに下がった。
「ふっ、そうだったね、バトラー」
武蔵はふふふと笑いながら言った。
「しかしね、ぼかぁ障害が多ければ多い程、燃える性質なんだ。明日も彼女の顔を拝みに来るとしよう」
「ありがとうございます。しかしメイドに触れるのは厳禁ですので、ご承知置き下さい」
菊二郎がきっぱりと言った。
そうだ、ここはメイド喫茶だったのだ。カヲルは少し逆上せあがった自分が恥ずかしかった。
「ご主人様、こちらにどうぞ」
エミリがにこやかに烈と武蔵を席に案内した。
それから次々と客が訪れ、喫茶アリスはあっという間に満席になった。ちりりん、ちりりん、と卓上の呼び鈴が鳴らされる。客席の四分の一をまかされているカヲルは、優雅に立ち振る舞いながら注文を聞いていった。
――エミリばかりに任せちゃ駄目。頑張らなくっちゃ。
カヲルはしどろもどろになる客や、呼び鈴を鳴らしたものの真っ赤になり黙り込む客を相手に、笑みを振りまきながら丁寧な接客をした。
「カヲルさん。お店の動画、見ましたよ」
客の一人がカヲルに話しかけた。
「俺、役所公認の売人の仕事をしてるんです。聞いた事ありませんか? 池袋組っていうの」
菊二郎は一瞬噴出しそうになったが、我慢した。源はゆっくりとティーカップを揺らして、紅茶の香りを楽しんでいた。
「ごめんなさい、そういうのに疎いんです。池袋っていう事は、地元の方なんですか」
カヲルの応答を聞いて、エミリは心の中で親指を立てながら、ナイス受け答え、と思った。
「そうなんです。カヲルさんが動画の中でノシた奴ら、無法者の薬売りでしてね。いわゆるシマ荒しなんです。俺らは絶対、高校生に売りませんから」
「まぁ、そんな怖い人達でしたの。カップルの痴話喧嘩かと思いましたわ」
「ははは、そうですよね。一般の人が見たらそんな風に見えますよね。もしかしたらあいつら、カヲルさんに危害を及ぼすかもしれないっス。でもカヲルさんは俺らが守りますから。いや、俺が……」
「守ってくださいませね」
カヲルが憂いのある表情でそう言うと、薬売りの青年はつーっと鼻血を垂らした。
「ご主人様、大丈夫ですか」
そう言って薬売りの青年に近寄ろうとした時、カヲルは菊二郎にぽんっと肩を叩かれた。
「ここはまかせなさい。このタオルをお使い下さい。ご主人様」
「だ、大丈夫っす、バトラーさん。俺、俺……カヲルさんを守りマスから」
薬売りの青年は真っ赤になりながら言った。
菊二郎は一瞬ぴくっと手を止めた。しかし次の瞬間、彼は薬売りの青年に優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。おや、携帯電話が震えておりますよ」
あっ、と言いながら青年はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。同時に源の万能時計もちかっと光った。源はちらりと時計に目をやり、再び紅茶を飲み始めた。
「仲間からだ。思ったより早く事件は解決しそうですよ。俺、行ってきます」
青年はカードをレジにかざした。青年が飲んだ紅茶の代金がカードから引き落とされた。
カヲルは菊二郎を見た。彼を追いたい。しかし仕事はどうするのだ。カヲルは葛藤しながら言った。
「バトラーさん、わたくし……」
「行っておいで。気をつけて」
菊二郎の心配そうな顔を見て、カヲルは少しだけ躊躇した。だがこの事件は自分が解決せねばならないのだ。そして兄もそれを知っているからこそ、この忙しい時間帯に送り出す事を許してくれている。その兄の心境が痛いほどわかり、カヲルは決心した。
「行ってきます」
カヲルはにっこり笑い、青年の跡を追った。
「カヲルさん! マスター、会計!」
「ボクも行こう」
烈と武蔵が立ち上がり、レジにぴっとカードをかざし、店を出て行った。
エミリは「いってらっしゃいませ、ご主人様」と言って、皆を見送った。そのエミリの右手は強い、とても強い感情を抑えているかのようにぎゅっと握られていた。
池袋の街はネオンに包まれていた。カヲルと烈と武蔵は青年の跡を距離を取って追っていた。
青年はバベルへとは向かわず、大通りから外れた道へと向かっていった。
「どこに行くんだろうな」
そう呟いた烈の肩をぽんっと叩く者がいた。
「なんだ? 武蔵」
「なんだ、ではない。何をやっているんだ? 烈……それと武蔵」
烈は青ざめながら後ろを振り返った。その声を聞いて、カヲルと武蔵も振り返った。そして武蔵はぼそっと呟いた。
「近藤真琴……」
池袋若草学園の標準服である白いセーラーカラーのブラウスに、漆黒のプリーツキュロットスカートを履いた真琴が、青年の跡を追っていた三人の後ろに立っていた。
「久しぶりだな、鬼龍院武蔵。前回の大会以来か」
そう言って真琴は武蔵の姿を頭の天辺から足元まで見た。
「……おぬし、また軟派な格好をしておるな」
「ふっ、ぼかぁ、君みたいに剣道一辺倒ではないのでね。君も青春を謳歌し給え。
おっと、それ所ではなかった。君も手伝い給え。動画に映っていた無法者の居場所が分かるかもしれないぞ」
真琴は声を潜めて武蔵に言った。
「動画? あの麻薬密売人の事か」
「そうだ」
「皆さん、早く」
真琴ははっとし、前を見た。一瞬、親友である土方香の声が聞こえたかと思ったが、そこには白いメイド服を着た金髪の少女・カヲルが立っていた。
――彼女を香と間違えるなんて。似ても似つかないではないか。
真琴は頬を赤く染めながら、カヲルを見た。烈が何故彼女と一緒にいるのか。また我が弟はあの「メイド喫茶」とかいう軟派な店に入り浸っているのだろうか。悪友である鬼龍院武蔵の悪影響なのかもしれない。
――しかし。
真琴はカヲルの後ろ姿を見た。彼女にまた会えた。これはどのような偶然、神の悪戯なのだろうか。
子供の頃に読んだ、御伽話に出ていそうな少女・カヲル。黄金の髪は緩やかにウェーブし、きらきらとネオンの光を反射して輝いている。スカートの下からちらりと覗く白い腿は、象牙のような滑らかさだ。彼女が動く度に白いスカートがふわり、ふわりと舞う。まるで風の妖精が、彼女のスカートを支え、悪戯しているかのようだった。
――カヲルか。
メガネを掛け、いつも勉強ばかりしている親友の姿を真琴は思い出した。兄のお古の制服を、少しぶかぶかのまま着ている親友。恋愛とかいう軟弱な話題に疎く、勉強と家事を両立させ、家族を支えている。香の兄の店で働いている、白いメイド服を着た華やかな少女と、なんとかけ離れている事か。
――はっ! いけない! 追跡中に何を考えているのだ!
真琴はふるふるっと頭を振った。
カヲルが追っている青年を真琴は見た。まだ若く、自分と同じぐらいの年齢に見えた。服装は薄手のTシャツとジーンズ。ジーンズには猛禽類の刺繍が施されていた。
「彼が密売人なのか?」
真琴はカヲルに話辛く、隣にいた烈に聞いた。
「いや、彼は池袋組に所属している公式な売人さ。アリスでお茶を飲んでいる途中に、組織から密売人の場所が分かったと連絡が入ったんだ。だから俺らがあいつを追っているわけ。あいつの行く先には密売人がいる筈だ」
「そうか。密売人は若草の敵だからな」
真琴はこくんと頷きながら言った。
――あぁ、真琴達を巻き込んでしまった。
カヲルはちらりと後ろを見た。人と闘うのと、スポーツの世界は違う。スポーツ選手は特化した戦闘技術の訓練をするからこそ、ルールを守り、その中で生きる者達なのだ。殺し合いにルールはない。寸止めもない。
――この人数を私は守れるかしら。
真琴は訓練しているから、いざとなれば逃げられるだろう。彼女は足も速い。しかし烈と武蔵はどうだろうか。烈は不良グループと付き合っているという噂があるが、それと喧嘩は違う。彼ならきっとブレインとして付き合っているはずだ。武蔵は?
カヲルは後ろにいる武蔵を見た。どこかで見た事があるような気がする。真琴が大会で、と言っていたから、剣道繋がりの者なのだろうか。最近の大会で鬼龍院武蔵という名の男子はいただろうか? カヲルは記憶を手繰り寄せたが、どうしても思い出せなかった。
しかし彼は柔らかい仕立ての良いスーツの上からも分かるぐらい、鍛えられた良い体付きだった。真琴の体を柔とするならば、武蔵の体は剛だ。あとは実戦を見てみないと分からないな、とカヲルは思った。
池袋組の売人はバベルの周りをぐるりと回って、北東エリアへと向かっていた。
昔、一世を風靡したパチンコはカジノ法によってカジノへと取り込まれた。大手チェーン店はカジノ運営会社として再編成され、中小パチンコ店はテナントとしてバベルのカジノエリアに店を構えた。バベルの七〇階以上は十八歳以下禁止エリアである。保護者が付いていても未成年(十八歳以下の者を指す)はこの地区への出入りは禁止されており、規則を破った者は保護者共々即矯正施設送りになった。バベルは建物が何階まであるのか極秘にされている。それがまたバベルをミステリアスな建物だと印象付けていた。
華やかなバベルとも、サンシャイン通りに近い喫茶アリスの周辺エリアとも違う雰囲気が、この北東エリアにはあった。豊島区役所も、大型量販店もバベルに飲み込まれ、打ち捨てられた風俗街は不法移民達が多く住む街になっていた。その中で池袋の住民達はボランティアで日本語教室を開き、移民達を池袋に暮らす住民と受け入れていた。
外国人が多く暮らすこの北東エリアは一方で、文芸座を中心とした文芸復興の地となっており、バベルやサンシャイン 60で行なわれている同人誌即売会に参加出来ない新興同人誌グループや、画家、音楽家達が日夜創作発表会を行なっていた。文芸座やシネロマン池袋は、バベルの外にある古いビル群の中で細々と営業していた。グローバル企業が作った超大作映画は大々的にコマーシャルされ、道を歩いているだけでも、またネットサーフィンしているだけでも、あらゆる所にポップアップ広告が出て人々に認知されていた。片や低予算で作られる文芸作品やピンク映画は、文芸座やシネロマン池袋のような小さな映画館で上映され、バベルが建った今でも固定ファンによって支えられているのだった。
真琴は周りをきょろきょろと見渡しながら歩いていた。
「……アネキ。あのさ……きょろきょろするな、人と目を合わせるな。小学校の頃に教わっただろ」
見かねた烈が真琴に忠告した。武蔵はくすくすと笑いながら烈に言った。
「まぁ、近藤道場の跡取りが、北東エリアに慣れないのは当たり前だ。真琴はボクの後ろにいたまえ」
真琴は少しむっとし、足元に落ちているゴミを見ながら言った。
「これでも子供の頃にボランティアで来た事がある。だが昔より、少し荒れておるな」
「真琴さんはわたくしの後ろに。烈さんと武蔵さんは後ろを守ってください。この地区はひったくりのメッカですから」
そうカヲルが言うと、武蔵は右手をぽんっと胸元に置いてカヲルに微笑んだ。
「ちょっと待ってくれ、お嬢さん。この中ではボクが一番武術に優れているだろう。ボクが先頭に立とう」
次の瞬間、武蔵の周りにふわりとそよ風が吹いた。
真琴はあっと思った。これだ。この感じ。
皆が気付いた時には、武蔵の左腕は背中に回され、締め上げられていた。
「後ろを守ってくださいますか?」
武蔵は腕を動かそうとしたが、体が動かなかった。武蔵の太い腕は、金色の髪をした華奢な少女に押さえられ、固まったように動かなくなっていた。
武蔵は未だかつて無い恐怖感を覚えていた。鍛えているようには見えないか細い体。だが背中から漂う彼女が纏う気迫に、本能が怯えていた。毛穴からねとっとした冷や汗が吹き出る。
きっちりと固定され、動かせない左腕。まるで腕に伝わる神経が途切れてしまっているようだった。その異常事態が、武蔵の考えを変えさせた。
「分かった。そうしよう」
カヲルは何も言わず、武蔵の腕を放し、先頭に立った。そして真琴の手を取って囁いた。
「わたくしの後ろにいてください。絶対に離れてはいけません」
真琴はこくんっと頷いた。
「武蔵が言う事を聞くなんて、珍しいじゃん」
烈がにやにやしながら武蔵に言った。
「いつもならあんな事をされても、解いてちゅーしちゃうのに」
武蔵は少しほっとした表情を浮かべながら、まぁね、レディファーストってやつさ、と言った。だが武蔵の服は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
大通りから離れると益々古ビルは増えた。廃墟になり、全てのガラスが割られているビルもあった。区が設置したと思われる監視カメラや通報電話は壊され、中の部品が抜き取られている。
薬の売人の青年は、何人かの男女と合流すると、細く古いビルの下に集まった。
「あそこがアジトか?」
真琴はそっとカヲルに話しかけた。
「そうかもしれません。真琴さんはここで待っていますか?」
「いや……これは私達の問題だろ?」
そう真琴が言うと、カヲルはふっと微笑んだ。
「そうですね。わたくし達の問題です」
こんな風に巻き込んで良いのだろうか。全国に支部がある道場の跡取り娘である真琴。もし彼女に何かあったら……。カヲルはちらりとそう思った。
しかしカヲルは決心しなければならなかったのだ。私達は既に麻薬の密売人組織に喧嘩を売ってしまった。だからこそ、今その組織を叩いておかなければならない。これはカヲルだけの問題ではなかった。動画には真琴の姿も映し出され、もう全世界に放映されてしまったのだから。動画がなくても組織は真琴を探し出し、報復するだろう。
売人達は数人が建物を包囲し、あとの者は全てビルの中へと消えていった。
――やっかいな……。場所だけ教えて引っ込んでいてくれれば良いのに。
売人達の中には池袋組の道場で師範を務める「香」を知っている者も二人程いた。だがこの格好ならば香だと分からないだろうと思い、カヲルは突入する事に決めた。
その時。
轟音と共に地面が揺れた。ビルの窓という窓から突風が吹き出て、窓ガラスが割れた。カヲルは咄嗟に後ろにいた真琴を庇い、地面に伏せた。入り口にいた売人達は落ちてくるガラスから身を守りながら、ビルから離れた。一人は落ちてきたガラスが腕に当たったらしく、血を流していた。ビルは同時にズズズズズと音を立てながら崩れていった。
「なんて事を……」
十五階程の古ビルがあった場所は大量の埃に包まれていた。瓦礫はビルがあった場所から溢れ、道路へとはみ出していた。薬の売人達とカヲル達は、呆然としながらその瓦礫を見つめ続けていた。
「わたくしが救急隊を呼びます。貴方達はここから出ないように」
カヲルは手で皆の行動を抑止しなが言った。
「だがあの瓦礫の中に人が」
真琴はカヲルの手を振り切って行こうとした。だがそれをカヲルはぐっと止めた。
「駄目です。監視されている恐れがあります。あとは救急隊にまかせましょう」
カヲルは知り合いの青年達の顔を思い出した。自分が指導した二人。まだまだ未熟だったが、最近組の仕事につける様になったと喜んでいた。二人共、親を早くから亡くしていた。ぐれて街で暴れ、保護施設に入り、そこで知り合った者に誘われ組に入ってきた。最近給料を貯めているのだと一人の若者は言っていた。年の離れた妹の結婚式を開いてやるのだと、涙ぐみながら語っていた。
カヲルは唇を噛んだ。何千人もの若者の指導をしてきたカヲルだが、彼らが何をしているのか知らなかった。地域のパワーバランスを保つため、彼らは闘いに出て、カヲルの目の前で死んだのだ。
強くなれるようにと、カヲルは彼らの成長の一端を手伝っただけだった。ほんの数日、数時間一緒にいただけだった。だがその数日の思い出が、とても長い時間のように感じた。今までは特に気にも留めた事が無かった。彼らが何をして、どのような人生を歩むのか。自分はただ道場で技を教え、技を競うのが好きなだけだった。だが今日、カヲルの目に彼らの人生が鮮明に焼きついた。
――これが、抗争。
カヲルは救急隊員に事件があった場所を伝えて携帯電話を切った。
――自分が選んだ行動の責任を取らなければならん。
源の言葉がカヲルの頭の中に木霊した。私が取る行動。まずは仲間の身の安全を確保する。それからビルの前で右往左往している若者達の身柄の確保。
カヲルは源に「敵のアジト爆破崩壊。周囲危険」とメールした。三十秒もしないで池袋組の若者達は何かの連絡を受けたようで、速やかに解散した。
ビルの周囲には人だかりが出来てきたので、カヲル達は喫茶アリスに帰る事にした。
ビルの前に、ランドセルを背負った近所の子供が座っており、瓦礫となったビルに小さな花を捧げていた。
「あら、烈ちゃんと武蔵ちゃんじゃないの」
後方から声がして、カヲルは驚き、振り向いた。
「やぁ、桃姉さん」
武蔵がにっこりと、後ろに立っていた老人に語りかけた。
老人は銀色の髪をツインテールに結わき、肩の辺りでくるくるっと毛先を縦ロールにしていた。白いワンピースには過剰なフリルが幾重にも重なり、小さな赤い薔薇が幾つもプリントされている。ワンピースの上には、これまた真っ赤なボレロを羽織っていた。遠目には百六十センチ程の少女に見える。
だが近くで見るとフリルの端はへたり、黒ずみ、フリルから覗く手や首には深い皺が刻まれていた。そして少しだけ、甘ったるいような、酸っぱいような匂いが彼女から漂っていた。
「凄い音がしたけど、どうしたんだい?」
「ビルが崩れたんです。烈君と武蔵君のお知り合いですか? 公園でお話を伺っても宜しいですか?」
カヲルがそう言うと、桃姉さんと呼ばれた老人は、ああ、いいともさ、と言った。カヲルはこくんと頷き、では行きましょうと言って、歩き始めた。
「なんだい、なんだい。烈ちゃんのレコかい?」
桃は、にやっと笑い、小指を立てた。
「うん……まぁ」
烈がそう答えると、武蔵と真琴が大きく首を振った。
「違うから!」
二人が同時に否定した。
武蔵が少し驚きながら、真琴の顔を見た。
真琴はこほんっと咳をした。
「いや……あの……こんな軟弱な男がカヲルさんの恋人なわけがない。カヲルさんはもっと硬派な……武道に秀でた……」
そこまで言った真琴は顔を真っ赤にして、俯いた。
サンシャイン60へと向かう途中にある東池袋公園に、五人は着いた。
「桃姉さん、なんか飲む? 奢るよ」
武蔵が自動販売機の前に立ち、桃に話しかけた。
「悪いねぇ、武蔵ちゃん。じゃあロイヤルミルクティーを貰おうかしら」
細い指を口に当て、ほほほと桃は笑った。
五人は思い思いにベンチに座る。木々が五人を歓迎するかのように揺れた。
ジュースを飲み、カヲルははぁっと溜息を吐く。そして桃を見て話しかけた。
「初めまして桃さん。私、喫茶アリスのメイドでカヲルといいます。宜しくお願いします」
「知ってるよ。今、池袋ではちょっとした噂になっているもんねぇ」
桃はふふふと笑った。
「そんなに噂になっているのですか?」
「あぁそうともさ。ホームレス仲間の間でも有名だよ。あたしは桃。桃姉さんと呼んでおくれ。池袋の主さ」
「主ですか」
「そっ。……おや、まぁ、なんでだろうね、この子、源ちゃんに似てる」
カヲルはどきっとした。源が池袋組と関係があること、そして源が香達の祖父だという事は友達の誰も知らない極秘事項だった。
「源さんって、あのメイド喫茶に来ている源さん?」
烈がパワーコーヒーを飲みながら桃に言った。
「イヤだよ、あの人ったら、未だに枯れていないんだね。メイド喫茶なんていうハイカラな場所に通うなんて。源は昔、あたしのレコだったんだよ」
そう桃は言うと、頬を染めながら親指を立てた。カヲルは源の女性遍歴を少しだけ知っていたので特に驚きはしなかった。だが新しい親戚がいたらどうしようと思い、桃に訊いた。
「源様とお付き合いしていたのですか? お子様とかがいらっしゃったとか?」
そうカヲルが言うと、三人は大きな声で笑った。
「欲しかったけどねぇ。あたしは昔、男だったからね。源ちゃんと子供は作れなくてね。ホームレスになってから女になったのさ」
「失礼しました……。桃姉様は昔、男の方だったのですか。全然そうは見えませんね」
「そうよ。美しさを極めたからね。源ちゃんとはよく一緒に闘ったものさ。源ちゃんは表の世界を、あたしは裏の世界を支配する約束をして別れたんさ。それにしても不思議な事があるもんだね。こんなに可愛らしいお嬢さんが源ちゃんに見えるなんて。
ところで武蔵ちゃん。あたしに何か用なんだろ」
「あぁ、あの崩壊したビルにどういう輩が出入りしていたか教えてくれるかい」
「なんだい、神妙な顔をして。いつもの武蔵ちゃんらしくないねぇ。あのビルは若い、とても若い少年達の溜り場になっていたよ」
「大人は?」
カヲルがそっと聞いた。
「そういや、いなかったねぇ」
「いない? 一人も?」
「あぁ、いなかった。電気も通っていたし、廃ビルというわけでは無かったんだがね。だから仲間内ではちょっとした噂になっていたのさ」
「ふぅん、大人が居なかったのですか」
カヲルはそう言うと、唇に手を当て少し俯いた。
「そうなんだよ。駄目駄目な薬を売ったりねぇ。困ったもんだよ」
「薬を売っていた人が、出入りしていたのですか」
「そうそう。なんかの化合物だって。とても少ない量で、とてもハマる薬をね。ホームレス仲間も二、三人はまっちまってね。もう少しオイタをしていたら、潰そうかと思っていたけど……自分達で潰してしまったね」
「あれは爆発物の匂いですものね」
そう言ったカヲルに、烈が驚いたように言った。
「カヲルさんは分かるんですか?」
「えっ……えぇ、ねぇ、桃姉様」
「いやだねぇ、お嬢ちゃん、桃姉さんと呼んでおくれ。そうさ、あれは爆発物の匂いだね。別にビルが自然に崩れたわけじゃない。爆発させたのさ」
「へぇ、俺には分からなかったな」
烈がカヲルを見ながら言った。
「わたくしの親戚が建設業で、よくビル爆破現場に連れて行ってもらったのです」
「あぁ、そうなんですか。でも何故爆破させたんだろう」
「もうアジトとして使えないからだろ。あのビルには常時十人程度の若者がたむろしていたんだがね。彼らごと吹っ飛ばしてしまったねぇ」
「仲間ごとですか」
カヲルが少し顔を曇らせて言った。
「そうだね。まぁ、不思議はないけどね。あのビルに居たのは下っ端だったんだろう……そう言っても、彼らに上がいるのかどうかは分からないけど。本当に子供しか出入りしていなかったよ」
「上にいる者が用心深いのか、あのビルはただの支部に過ぎなかったのか……」
カヲルがそう言うと、遠くから消防車のサイレンが聞こえてきた。
「桃姉さん、これ、お礼」
武蔵はそう言うと、携帯電話をいじった。
「悪いね、いつも。へへっ、本当にね」
桃はIDカードを見て、へらっと笑った。
「また仕事がある時は呼んでおくれ。人気ゲームの発売はないのかね。人が必要ならいつでも集めるよ」
「うん、今の所ね。ごめんね」
桃はひひっと笑うと、ダウンタウンへと帰って行った。
「武蔵、桃姉さんはゲームが好きなのかね」
真琴が桃の後姿を目で追いながら言った。
「うん? ……そうそう、彼女、ゲームが好きでね」
そう武蔵が真琴からすっと視線を逸らし、言った。
その帰路、四人はただ黙ったまま歩いていた。カヲルは静かに俯きながら、真琴は今起こった事をゆっくりと理解しながら、烈は携帯電話をいじりながら、武蔵はまっすぐと前を見つめながら歩いていた。
喫茶アリスは殆どの客が帰宅し、源だけが残り、菊二郎と談話していた。
「お帰りカヲルさん」
菊二郎がそう言いながら、ほっとした表情を浮かべた。
源は烈達にお疲れさんと言った。
「マスター、爺さんに話したの?」
烈が源のほうを見ながら言った。
「いいえ。むしろ源様に伺っていた所ですよ。なにやらビルが崩壊したそうですね。今、ニュースもその話で持ちきりです」
菊二郎はカウンターの中にある小さなPCを立ち上げた。ネットニュースをクリックすると、ライブニュースが流れ始めた。
『現場の庄治です。ご覧ください、池袋ダウンタウンにあるビルが、一瞬で崩壊しました。専門家の話によると老朽化が原因ではないかと言われています』
「老朽化……ね」
武蔵が呟いた。
「えー、もう爺さんに情報流れたの?」
驚いた様子の烈が言った。
「ふっふっふっ、池袋町内会の情報の速さを舐めるでないわ」
「源様は町内会長さんなんですよ。私達も入っておりますが」
「へえー、町内会の噂っていうのも使えるもんなんだな」
真琴は店内をきょろきょろと見回した。
「菊二郎さん、内装を変えたのですね」
「えぇ。最初に真琴さんがいらした時より、少しファンシーになっているでしょう? メイド喫茶に改装しましたからね。小物とか、香が作ってくれるんですよ」
「メイド喫茶は男のロマンだから、アネキは入りにくいのかもしれないな」
「ふふん、最近は女性層にも受けているのだよ。真琴はまだまだ子供だな」
そう烈と武蔵に言われて、真琴はちょっとむっとした。
「軟弱な奴等に言われたくないわ。このような店には合った客層というのがあるだろう……その……お爺さんとか」
真琴は言葉に詰まりながら、源をちらっと見た。仕立ての良い柔らかな背広を着こなした源だが、その体躯は良く鍛えられたものだと真琴は一目で分かった。
だが彼はとても物静かな雰囲気を醸し出していた。彼の傍に座ると、まるで森林にいるような安らかな気分になった。紳士とはこういう者の事をいうのかもしれない。しかし、このネオン煌く池袋の街となんとかけ離れていることかと真琴は思った。
「ほっほっほっ。面白い者達だのぅ。ところで今日の事を詳しく教えてくれまいか」
源はそう言って菊二郎にアールグレイを注文した。
「それについてはボクが説明しよう」
武蔵が長い足をすっと組んで、話し始めた。
「ボク達が池袋組の売人と名乗る青年の跡を付いて行ったら、彼がダウンタウンに向かったンです。こちらのお嬢さん達と一緒に行くのは、ぼかぁ反対だと思ったンですけどネ。だけど危険な池袋でお嬢さん達だけ帰すのもなンだと思いまして。あっ、バトラー、カヲルさんはボクがしっかりお守りしましたから」
おいおい、先頭を歩いていたのはカヲルさんだろう、と真琴は思ったが突っ込まなかった。
「文芸座を過ぎてさらに進んだ所に、一棟の古いビルがありまして。そこに彼らの仲間が集まっていたンですよ。ははぁ、ここが敵のアジトだとピンッときました。青年達は数人を残して全員ビルに入っていったんです。そして僕らも突入しようとした瞬間、ビルが爆発したンです」
「ふむ、爆発か。老朽化による崩壊ではなかったと。中に人がいた気配はあったか?」
源はそう言うとスコーンを口に運んだ。
「電気は点いていました。人がいたかどうかは定かではないのですが。ただ桃姉さん――情報屋さんなのですが――が言うには、普段からビルには若者が十人程居て、彼らごと吹っ飛ばした疑いがあります」
「桃か」
源は目を輝かせてふっと笑った。菊二郎には一瞬、源がとても若い青年のように見えた。
「お爺さんの恋人だったと伺いましたが」
真琴がそう言うと、源は紅茶を噴出しそうになった。
「そう桃が言ったのか?」
四人はこくんっと頷いた。
「はぁー。桃はわしの……無二の親友じゃよ。奴とは若い時、いろいろとやんちゃした仲での」
「爺さんでもやんちゃする事があるんだ」
烈がくすっと笑った。
カヲルと菊二郎とエミリは烈の不遜な物言いに青ざめ、緊張した表情で互いを見た。
「なんだ、若造。わしだって若い頃はいろいろしたもんじゃ。百人切りを競うとかな」
「どっちが勝った?」
烈は目をきらきらさせながら言った。真琴は烈の脇を肘で小突いた。
「もちろんわし……と言いたいところだが、桃じゃよ。奴は百人の男を二週間で食いおった。証拠も出された。あれから桃と勝負するのは止めたんじゃ」
「桃姉さんはもてそうですからネェ」
武蔵がふっと笑いながら言った。
「そう、奴はモテる。あれにはまいった。だからこそ桃の親友はわしだけなのさ。男も女も桃と知り合うと、殆どハッテンするからな」
そう言う源を菊二郎がきっと睨んだ。源はそんな菊二郎の視線に気付き、ちらりとカヲルを見て、こほんっと咳をした。
「うむ。話が脱線したな。その崩壊したビルの周辺には誰かいたか」
「見た感じ近所の住民だけでした。服装と言葉から判断しただけですけどね。ボクはよくあの辺りで遊んでいるのでよく知っているンですけど」
「武蔵、あの辺りで遊んでいるのか?」
真琴は呆れた顔をして武蔵を見た。
「まぁね。これでも文芸座の会員なンだよ。それに烈と一緒に炊き出しのボランティアにも登録しているのさ」
「烈が週末の練習を休むと思ったら……ボランティアか……」
真琴は複雑な顔をした。
「話を戻すと、まぁボクが見た限り、ビルが崩壊した時、その周辺に集まっていたのは近所の住民ですね。その人達が薬の売人をしていないとは言いきれないところがありますけど」
「そうですね、わたくしも武蔵さんと同意見です」
カヲルが武蔵を見ながら頷いた。
「ふむ。桃はなんて言っていた?」
「桃姉さんは大人が誰一人として立ち入らないビルだった、と言ってました。ここでぼかぁ疑問を感じたンですよ。ビルを所有する程の資産がありながら、大人が出入りしていないなんて不思議じゃありませんか」
「大人がいない? それは確かに不思議じゃの」
源の瞳がきらっと光った。
「エミリ、ビルの所有者を調べてくれるか」
「はい、もう調べてあります。敬光コーポレーションという企業です。しかしここの社長宅は小さなレンタルルームですから、名義貸しですね。社長は後藤和久、六十一歳。一年前に借金が帳消しされています。その額五百万近く。本人はその頃から姿を消してます。追跡不可能です」
真琴は驚いてエミリを見た。
「エミリさんは凄いですね。うちの叔父さんみたいだ」
「お嬢ちゃんの叔父さんはエミリに似ておるのか?」
「えぇ、お爺さん。うちの叔父は警視庁で働いていまして。あ、これうちの道場の名詞です」
「おぉ、ありがとう」
源はじっと名詞を見つめた。
「近藤真琴君か。ふむ。では叔父さんというのは近藤剣一君だね。あの子もちびっちゃかったのに、いつの間にか立派になったの」
「叔父さんを知っているのですか?」
「うむ。池袋の町内会長だから、大抵の事は知っておるよ。町内会にも剣道同好会があっての。いつも警察署にはお世話になっておるしな。しかし君みたいな天童が、このワルガキと双子だというのは、神の悪戯じゃの」
源はにやにやと笑いながら、烈を見た。
「うるせーよ、爺さん。どうせ俺は剣道の才能がないし」
「うん、烈には全くないな。人には向き不向きがある。烈は企業経営のほうが向いている」
武蔵がうんうんと頷きながら言った。
「私は烈も剣道を続けて欲しいのだがな」
真琴は少し寂しそうな表情をして言った。
「それにしても証拠を隠滅されるとやっかいだの」
「これで終わるでしょうか」
カヲルは源に聞いた。源は菊二郎が新しく入れたアールグレイを飲みながら言った。
「さて。これで終わってくれると良いがの。わしもお嬢ちゃん方が心配じゃ」
「ボクも心配です。カヲルさん、一人でダウンタウンには行ってはいけませんよ」
「俺も心配だな。そんなふりふりひらひらな格好であそこを歩けるのは桃姉さんだけさ」
「そうそう。昔、桃姉さんを襲おうとした若者の集団が、次の日には石神井川に浮かんでいたっていう噂ですからネ。姉さんのファンクラブは半端じゃないですよ。コワイコワイ」
武藏がそう言うと、一同は声を立てて笑った。そして烈が指を鳴らして武蔵に言った。
「それだ! 俺達もカヲルさんのファンクラブを作ればいいんじゃね?」
武蔵はにやりと笑った。
「全世界で一万人を超えるだろうと思われるカヲルファンを敵に回すような発言をする烈の勇気に乾杯」
そう言って、カップを持ち上げた。
「でもそれはいい考えだ。ボクの『メイド喫茶美術館』に立ち上げよう。どうでしょう、カヲルさん、ボクらで公認ファンクラブを立ち上げてもいいですかね」
「それは……」
そこでエミリがカヲルを押し退けて言った。
「いいですわ。喫茶アリスのサイトからリンクするよう、業者さんにも伝えておきますね。カヲルの秘蔵写真も分けてさしあげましょう」
「おぉ、いいですか、エミリさん。どうでしょう、バトラー。カヲルさんのファンクラブを作っても良いですか?」
「そうですね。プライベートに踏み込まないならいいですよ。カヲルさんは従業員ですから、プライベートに踏み込まれるのは困ります」
「分かりました、会則に盛り込みましょう」
武藏は烈の方を向いて親指を立て、グッジョブと言った。烈はにやっと笑いながら、まかせろと言った。
源は安心したような笑みを浮かべ、スコーンを口に運んだ。
夜十時。少女は要町駅を降りると山手通りを椎名町方面に向かい、そこからすぐの角を西に曲がった。少し暗い住宅街であったが、少女の家は角を曲がってから早歩きで二分もしない距離だった。
「ただいまー」
インターフォンを押すと、お帰りなさいという声と共に門の鍵が開いた。少女は後ろを確認しながら白い鉄の門を開け、するりと庭に滑り込んだ。鉄の門は閉まると、再び自動的にロックされた。
少女は玄関を開け、再びただいまと言った。リビングルームからお帰りなさいと声がする。鞄を玄関の鞄置き場に投げ入れ、少女はリビングルームに向かった。
「お帰り、裕紀ちゃん。ご飯、出来ているよ」
「ありがとう、パパ」
裕紀は素早く洗面所で手を洗い、食卓に着いた。
「今日はパパが当番なのね」
「うん。仕事が早く終わったからね」
「ママは?」
「上で着替えてから来るって。裕紀は着替えないでいいのかい?」
「えへへ、お腹空いちゃった」
「そうか、じゃあ先に食べなさい」
「ううん、ママを待ってる……あっ、ママ、ただいま」
リビングルームに柔らかいワンピースを着た裕紀の母が現れた。
「お帰り裕紀ちゃん。今日、大事件があったけど、大丈夫だった?」
「なになに?」
裕紀は麦茶をコップに注ぎながら、母に尋ねた。
「駅前の清掃工場周辺で、古いビルが崩れ落ちたそうよ。あの辺りは学校の炊き出しボランティアで行くんでしょう?」
心配そうな母を見ながら、裕紀は麦茶をごくんと飲んだ。
「あぁ、あの辺? 私はあのボランティアに参加していないからよく知らないけど、古いビルが多いって聞いた事がある。とうとう崩れたんだ。危ないね」
「学校や予備校の周辺にもまだ古ビルが多いからな。早く開発が進めばいいが……パパは心配だよ」
「古いビルは多いけど、私は大通りを歩いているから大丈夫だよ。そういえば今日テストがあったんだ」
「出来た?」
そう言いながら父親はフライパンを片付け、食卓に着いた。
「うん、まあまあ。でもちょっと翼の具合が悪くてさー、心配かな」
「そういえばさっき、翼ちゃんのお母さんから電話があったぞ。うちに翼ちゃんが来ていないかって」
「パパ、本当? 翼とは予備校の前で別れたんだ。バベルでノートを買って行くから先に帰っててくれって言われた」
「そうか、すぐに帰ってきたみたいで、心配を掛けましたって連絡が来たけど、そういう時は親御さんにメールするように言ったほうがいいかもな」
「うん。メールしてないなんて思わなかった。あそこの家、過保護だから、翼もウザくてメールしなかったのかな」
「そんな事を言うもんじゃないぞ、裕紀。パパだって裕紀の帰りが遅かったら心配になるよ。ここは特区だしな」
「そうかな。でも翼のお母さん、私の前でも翼を叩くから、びっくりしちゃう」
「……そうか、それはびっくりしちゃうな。パパは裕紀を叩かないけど、ご家庭にはご家庭ごとの躾があるから」
その時、食卓の傍にあるテレビが点いた。母親がスイッチを入れたのだ。
「そろそろ『相棒』が始まっちゃう」
「よく続くよね、このシリーズ」
「えぇ。裕紀ちゃん、パパはあんな風に言っているけど、パパだって昔は暴れん坊だったのよ。結婚を機に暴力は振るわないって約束してくれたけど」
「ちょっと待てよ、ママのほうが暴力を振るっていたじゃないか。俺は何度痣を作って出社したことか」
「たまにじゃない」
「いや、違う」
「でもね、裕紀ちゃん。パパもママも今は暴力を振るわないでしょ。だからきっと翼ちゃんのママも、それに気付く時がくるわ」
「そうだぞ、裕紀。何事も強い意志があれば変えられるんだ」
「パパもお料理上手になったしね」
「そうそう……ママは帰りが遅すぎるんだよ……だから裕紀が翼ちゃんを助けてあげなさい。とりあえず遅くなる時はメールするように言ってあげるといい。裕紀もメールをするんだぞ」
「はい、パパ」
「今回の犯人役、格好良いわぁ。桜木ジェム君。若手俳優の中では一番よね」
「ママったらアイドルが大好きなんだから。私はブログ神のほうがいいわ」
「ブログ神ってなぁに?」
「もう、このネット社会に信じられない言葉! 神様みたいに素晴らしいブログを書く人の事よ。そういうのを神っていうの」
「そうなの? ジェム君みたいな格好良い人がやっているの?」
「そういう場合もあるけど、主には書く事が素晴らしいから、神なの! ママは分かってないなぁ」
裕紀はむーんっと眉間に皺を寄せながら、豚のしゃぶしゃぶを口に放り込んだ。
柔らかい間接照明の光が、山崎家の食卓を優しく包み込んでいた。
「うわー、疲れた」
バイトの後、家事を終わらせた香は、緑系のチェックの寝巻きに着替え、ベッドに横になった。参考書をぱらぱらと開くが全く頭に入ってこない。同じ所を読んでいるのに香が気付いたのは、柱時計が丁度二時を告げた頃だった。
――中間試験まであと二週間しかない。
成績優秀者として奨学金を受け取り、私立学校に通っている香にとって、成績は死活問題だった。だがトレーニング、生徒会活動、メイド喫茶アリスでのアルバイト、そして終わってからの家事。それらをこなすのは大変な事だった。喫茶店のアルバイトが終わってから、お弁当を作り、冷蔵庫に入れる。お店の余ったパンでサンドウィッチを作る日もあるが、そればかりでは飽きてしまう。自分の分の弁当と、菊二郎の弁当を作り、寝るのが彼女の日課だった。
香は今日起きた事を思い返していた。轟音と共に崩れ落ちるビルディング。
――敵対組織は思った以上に大きいな。
天井を見ながら、香は現状を冷静に分析していた。どのような組織構成かは分からないが、少なくともビルを爆破するだけの爆発物を揃えられるだけの規模はあるという事だ。あの美しい崩れ方は、どう見てもプロの仕業だろう。そして仲間ごと証拠を隠滅する冷徹さ。
香はぶるっと体を震わせた。
――恐ろしいから震えたのかな。それとも興奮して奮えたのかな。
香は両手を見た。そこには源に鍛えられた、若者達を指導して来た手があった。
闘う事を拒否する自分がいる。母・七海の望み。兄・菊二郎の望み。それは香がYAKUZAとは縁遠い、普通の生活をする事だった。高校の普通科を卒業し、経済学部に進み、一流企業に入って平穏なOLとして過ごす。それは自分にとっての目標であった。
だが。
香は目を瞑った。だがこの血の高まりはなんなのだろう。あの真琴と一緒に闘った時の幸福感。背筋が震えるような、神経が冴え切ったあの感覚。
香と真琴は若草学園の中等部で出会った、と真琴は思っている。だが香自身はその前に真琴に出会っていた。
七歳の頃、源に連れられ警視庁の真剣所持資格審査の試験会場に行った時の事を、香は忘れられない。初めて真琴に会った、あの蒸し暑い夏。
香は試験官の匿名性を保つために、剣道の防具を着けていた。
「土方さん、今回もお願いします。おや、この子は? こんにちは」
警視庁の若い検査担当者は、源の横に立つ香に声を掛けた。
「土方香です。見学に来ました」
「香ちゃんか。土方さんの……えーと、お子さんで?」
「ほっほっほっ、そう言いたい所じゃが、末娘の七海んとこの子じゃ。七海は将来池袋組から出たいと言っておってな。そうするとこの子が堅気な土方の代表となる」
「そうですか、七海さんが……。時代の流れですかね」
「そうじゃの。土方はまだまだ池袋組とべったりじゃ。だがこの香が新しい風を入れてくれるかもしれん」
「香ちゃんはこれから新しい土方の代表になるんですね。よろしくね、香ちゃん、僕は近藤剣一」
右手を差し出す剣一に、香はにっこり笑いながら右手を差し出そうとした。だが次の瞬間、小さな香はあわてて手を引っ込めた。
「ごめんなさい。お爺ちゃんが握手しちゃ駄目だって。香は……土方の『体質』だからだって……」
「すまんの。まだ香は力の加減が出来なんだ」
「あぁ、土方さんと同じ体質なんですか。へぇ、こんな小さな娘さんがねぇ」
その時、九時を知らせるチャイムが鳴った。
「あっ、テストが始まりますよ。今回は僕の姪っ子も来ていてね。土方さん、審査をお願いします」
「姪っ子さんというと、近藤本家の娘さんか」
「えぇ、まだ七歳だから止めろと言ったのですが、これがまた気が強くて」
剣一は、はははと笑いながら、試験場に入ってくる者達を見た。
五人の大人の後から、小さな子供が入って来たのを、香は今でも覚えている。自分よりちょっと背が高い。でも同じ子供だ。同じ年の子がいる事に、香はわくわくした。
お友達になれるだろうか。香はそう思いながら、祖父をちらりと見た。祖父は試験官である。身分を明かす事は出来ないと言っていたのを香は思い出し、しょんぼりした。
源が一人一人の技術に点数を付けていた。投げられた紙を切る技術、言われた枚数の和紙を切る技術、その少女は、大人達がミスする中、一人だけ次々とクリアしていった。
実技の一次試験で四人の大人が落ちた。香は少女が残った事にほっとした。
最後の実技は真剣勝負である。しかしそれは寸止めで行なわなければならなかった。大人の試験は特に問題なく終わった。そして一七〇センチの源の前に、小さな少女が立った。
二人が剣を握り向かい合った。少女は両手で持っていた真剣を、片手持ちに変えた。
「……ほう」
源が嬉しそうに呟いた。
試験会場にかつてない程の緊張感が走った。香はあの時の興奮を未だに覚えていた。楽しくてどきどきし、二人から目が離せなかった。だが香の近くに座る剣一は緊張し、手をぎゅっと握っていた。記録係の青年は場の緊張に耐えられず、ぶるぶると体を震わせていた。
最初に仕掛けたのは少女だった。刀がふわりと宙を舞い、源に襲い掛かってきた。源も両手持ちを止め、片手持ちに変えた。剣は金属音を場内に響かせながらぶつかり合っていた。小さな少女は素早く、そして華麗に真剣を振り、それに源が応えた。剣舞のような美しさは場内の者達を魅了した。
――なんて素敵なんだろう。
香は体の火照りを感じた。真剣が重なるたびに響く音。ベテランの源に少女は全く押される事はなく、それどころか源の隙をつこうとさらに攻撃を強めた。
これは本当に試験なのだろうか? そのような試験官達の動揺が、香に伝わってきた。美しい剣舞に見えるが、これは上達者同士の試合である事のあらわれであった。普段の試験でいかに源が相手の力量に合わせているのかも分かった。試験会場でなく死闘を見ているかのようだった。
「つっ!」
一瞬の事だった。源がやや押された次の瞬間、少女の刀の刃先が折れた。刃は目にも止まらぬ速さで香の方へと飛んだ。
「あっ!」
少女が声をあげ、香の方を見た。
香はひょいと肩を動かし、刃先を避けた。刃先は香の真後ろの壁に刺さった。
ほっーっという溜息が、試験官達から漏れた。
「やめっ!」
試験官の合図によって少女の試験は終了した。少女は一礼し、会場を出ていった。
「いやはや、大人気ない。つい楽しくて本気になってしもうた」
源がはっはっはっ、と笑った。
「まったくやんちゃな姪で申し訳ないです」
剣一が困ったように言った。
「いやいや……素晴らしい才能をお持ちで羨ましい限りですな。近藤家の跡取りで無かったら、すぐにでも土方にハントしたいところじゃ」
少女が出て行った扉をじっと見つめている香に、源が気付き、話しかけてきた。
「香、あの子が気になるのか?」
「はい。……素敵でした」
「うむ。きっとお前が望めば、どこかで会えるだろう」
源がそう言うと、香は頬を染めながらこくんと頷いた。
しかし香が少女に会うのはそう遠い事では無かった。次の年の試験でも、その次の年の試験でも、香は少女と会う事になった。
香は不思議に思い、源に聞いた。
「お爺ちゃん。あの子はどうしてあんなに強いのに、毎年来るの?」
源は複雑な表情をしながら、香に言った。
「うむ……真剣所持試験はな、実技とペーパーテストがあるのじゃ。実技だけではなく、倫理テストもせねばならんでの。あの子は毎年、ペーパーテストに落ちていてのぉ。やはり九歳の少女には難しいようじゃ」
「そうなんだ」
実技テストが終わり、道場を出ていく少女の跡を香は付いていった。
少女は外の階段に座り、鞄からテキストを出した。
「こんにちは」
香は面を着けたまま、少女の横に座った。
「こんにちは。君はいつも審査員席にいるな」
「うん、お爺ちゃんと一緒に来てるんだ。ねぇ、その本、難しい?」
少女はこくりと頷いて、本を少女に手渡した。
「うむ。父上が振り仮名をふってくれたのだが……意味がわからないのだ」
「どれどれ……」
「この、カブト乙というのが分からなくてな……振り仮名は振ってないが、読み方は正しいと思う」
テキストに書かれた甲乙という漢字を見た香は、母親がサインした借金の契約書を思い出して、少しだけ暗い気持ちになった。
「これはコウオツって読むんだよ。甲が自分で、乙が敵なんじゃないかな」
香がそう言うと、少女はしばらく考えてあっと声を上げた。
「本当だ。意味が通じるぞ! カブトがどういった関係なのか、さっぱり分からなかったのだが……ありがとう! テストを受けてくるよ」
「頑張って」
少女は階段を昇り、くるりと振り返った。
「私は近藤真琴。君は?」
「私は……ひ」
言いかけて、香は口篭った。
「……ごめんなさい、名前を名乗ってはいけないの」
「そうか。また会えるといいな」
「うん」
建物へと入っていく真琴を、香はじっと見つめていた。
「こんどう、まこと……」
香は熱くなった頬を、そっと押さえた。
真琴はこの年、真剣所持資格を取り、日本で最年少の真剣所持資格合格者として新聞を賑わせた。
4
香はふっと目を覚ました。とても懐かしい夢を見ていたようだ。時計は六時三十分を指している。
「ご飯の支度しなきゃ」
目を擦りながら、香はベットから降りた。勉強していたつもりが、いつの間にか寝てしまったようだ。
――あの後、真琴が若草の中等部に入るってお爺ちゃんに聞いて、私も若草を目指したんだっけ。私立でお金が掛るけど、同じ若草出身のお兄ちゃんは喜んでくれた。
香は生活を支えてくれる兄の事を思うと、胸がふんわりと暖かくなった。
米を研ぎ、素早く炊飯器にセットした。昨日やり損ねたのは痛い。片手鍋にお湯を沸かしてわかめスープの用意をする。
「お弁当はご飯と、かつお梅と」
小さな小さなかつお梅を見つめて、香ははぁ、と溜息を吐いた。
「お爺ちゃんちで食べた紀州梅って、美味しかったな。高くて買えないけど」
そしておかずを考えた。
「うーん、自家製かいわれと卵と小麦粉、貰い物の天かすを混ぜ、水を入れてよくかき混ぜる」
香はボールに入れた具をかしゃかしゃと菜箸でかき混ぜ、塩、コショウ、ほんだしを入れた。
「これを焼いて、お好み焼きモドキ出来上がり」
ジュージューと音を立てている具を見ながら、香は満足そうに笑った。
「小麦粉も高くなったなぁ。五年で五〇%も値上げするなんて。貧乏人には辛い世の中だよ」
香は一五〇円ショップで買ったお弁当箱に、焼けたお好み焼きモドキと、炊き立てのご飯を入れた。
「お弁当に梅干しを入れて……と」
小さなかつお梅を見ながら、これもいつまで入れられるのだろうかと思った。
何度も何度も借金を作ってくる母・七海。家族は支え合わなければならない。それは香もよく分かっていた。母がカジノで借金を増やしてしまうのも仕方がないと思っている。
でもたまにとても辛い時がある。友達が学校帰りにカフェでお茶している時、テスト前に勉強だけしていられるクラスメイトを見る時。香はほんの少し、寂しい気持ちになるのだ。
――早く大学を卒業して、大企業に勤めて、家計を支えなきゃ。
沸騰したお湯に、業務用乾燥わかめを入れて、ほんだしと塩を入れる。それをお椀によそい、ご飯のおかずにした。
「いただきます」
今日のお弁当には卵を入れたから、ちょっと贅沢だな、と思い、香はにんまりと笑った。
「なぁ……」
珍しく学校に来ている烈が、香のお弁当を見ながら言った。
「メガネちゃん。お前、肉は?」
「ん? お好み焼きモドキに卵が入っているよ。今日は奮発したんだ」
烈ははぁーっと溜息を吐いた。
「お好み焼き”モドキ“ってなんだよ! モドキって! ちょっと食わしてみろ」
香があっと言ってお弁当を手で隠したが時遅く、烈はお好み焼きモドキを口に放り込んでいた。
「これ山芋入ってねーだろ」
「山芋なんて高級食材、買えないもん」
「つーか、キャベツは?」
「かいわれ入れたもん」
香はお弁当を手で押さえながら、ぷくっと頬を膨らませた。
「また七海さん、借入金を増やしたな?」
烈は声を潜めて言った。
香はちょっと顔を反らせ、関係ないっしょ、と呟いた。
「ほら、お好み焼きモドキを食ったお詫びにカツの切れ端やるよ」
烈は香のお弁当箱の蓋に、カツを乗せた。
「うむ、私も人参と里芋の煮っ転がしをやろう」
真琴が烈と同じく自分のお弁当から、香の弁当箱の蓋に煮っ転がしを入れた。
「ありがとう」
香はにぱっと笑いながら、煮っ転がしを食べた。
「美味しい。これ、真琴が作ったの?」
「いや、ばあやが作ったのだ。料理上手でね」
「たまにアネキが夕ご飯作ってくれるけど、ご飯とパックの黒豆と生卵だけだし」
烈が呆れた顔付きで天井を見上げた。
「うむ。烈は私より料理が上手いからな。私は剣道一辺倒でいけない。もっと人格を磨かなければ」
「もう少し人並みな料理を作ってくれると嬉しいけどな。ピロシキとかさ」
「ぴ、ぴろ?」
「ピロシ?」
香と真琴は声を揃えて言った。
「ピロシキってなんだ?」
烈ははぁーと、深い、深い溜息を吐いた。
放課後の生徒会室。エカテリーナが背筋をすっと伸ばした美しい立ち姿で窓の外を見つめていた。
エカテリーナに昨日の報告をしている真琴の横で、知らない顔をしながら香は聞いていた。
「ふむ、それで麻薬密売組織のアジトは爆破されたと」
エカテリーナは窓の外を見つめながら言った。
「はい。池袋の情報屋殿から伺った話ですから、爆発したビルがアジトであるのは間違いありません」
「情報屋?」
「えぇ、桃姉さんという」
その時、麻理亜がガタンっと椅子を蹴飛ばしながら立ち上がった。
「情報屋の桃ですって? 貴女みたいな剣道バカがどうやって知り合ったのよ!」
真琴が答える前に、エカテリーナが口を挟んだ。
「韓は知っているのか?」
「もちろんですとも裏せ……もとい、韓グループに情報漏れはなくってよ。桃というのは伝説の情報屋ですわ。私も父から紹介された事があります。……桃のエージェントにですけど」
桃姉さんには会った事がないのか、と香と真琴は思った。
「ふむ、情報は確かなのか?」
「うちのグループの得意先ですもの。当たり前ですわ。そこの剣道バカが会った人が本当に本人だったらの話ですけど」
麻理亜は少し小馬鹿にした表情で真琴を見た。
「情報屋桃から情報を買うのは破格の値段ですもの」
武蔵は一体幾ら払ったのだろうと、真琴は不安に思った。
「情報料を支払ったのは友達だから値段は知らないが、桃と名乗っていたぞ」
「ふぅん、それが本当ならいいですわね」
半信半疑の麻理亜は、左の眉毛をきゅっと持ち上げながら、真琴を見た。
「ふむ。ではその友達を信じよう。今後我が学園の生徒にドラッグを売る者がいなくなればいいだけだからな」
エカテリーナがそう言うと、そうですわね、と麻理亜が頷いた。
「無事に終わるといいのですが……」
香が窓の外を見ながら、そう呟いた。
「裕紀、この間の小テストの結果はどうだった?」
呼ばれた少女・山崎裕紀は、親友の相沢翼の話し方がまともだったので、少しほっとした。
「うん……八十八点かな。ちょっと間違えちゃってさ」
「そうなんだ。私は八十点だった。一番はまた近藤烈様だったね。隣のクラスは烈様のお陰で平均点が上がって羨ましい」
「烈様は毎回学年トップで神よね。そしてあの有名な真琴様と双子だなんて素敵過ぎるわ」
「真琴様って誰?」
「ほらあの長髪で、よく白い着物を着て、竹刀を持っているお方よ」
「あの髪の長い、背筋がまっすぐな人?」
「そう」
「あの人……有名人なんだ……私……この間、道端でタクに殴られた時、助けてもらったかも……」
相沢翼は少し俯き、口を歪め、にやぁっと笑った。
「裕紀は真琴様が好きなの?」
「嫌いな人なんていないんじゃない? 学校の有名人だもの。一年生なのに生徒会役員に抜擢されて、剣道では常に全国一位を獲り続けて……それにあのカッコ良さ! 翼を助けてくれたんだ、お礼しなきゃじゃない」
「でお、私……そおゆうの苦手……」
「翼はシャイだもんね。大丈夫、私も付いていくから。お手紙を書きましょう」
「そ、そうね……助けてくれたんだもん……」
「そうよ、そうよ」
――やっぱりあの動画、翼だったんだ。じゃあ相手の男は麻薬の売人ね。思った通りだわ。
裕紀は一瞬、暗い表情をした。しかしもちろん翼はそんな裕紀に気付かないのだった。
移動教室から帰ってきた香と真琴は席に着き、教科書を机の中に入れた。
「ん?」
「どうしたの? 真琴」
机の中から何かを取り出す真琴に、香が声を掛けた。
「手紙だ」
「またラブレター?」
真琴は複雑な表情をしながら香を見た。
「人は何故ラブレターを書くのだろうな。学生の本分はスポーツだろう」
「いや、真琴、普通は勉学だから」
真琴が封筒を開けると、香がちらりと覗きこんだ。
そこには赤いペンでこう書かれていた。
――放課後、告白の樹の下で待ってます。
「これは……決闘の申し込みか?」
手紙を読みにやりと笑った真琴に、香が突っ込みを入れた。
「いや、絶対違うから」
真琴はがっかりし、唇を尖らせながら俯いた。
「違うのか……」
香は興味がなさそうな顔をしていたが、内心は真琴がラブレターを貰うと、彼女が誰かを好きになってしまうのではないかとはらはらしていた。だが手紙から滲み出る異様さを感じ取り、今回は違うだろうと香は思った。
「私も一緒に行っていいかな?」
「おう、しかし決闘だったら手を出すなよ」
「絶対に違うと思うけど」
――敵対組織からの呼び出しかもしれない。油断はしないようにしよう。
香はその、目立つ赤い文字に警戒した。文字は少しゆがみ、何か人を不安にさせるような字体だった。
放課後。
「決闘の樹はここか」
「いや、告白の樹だから」
香が真琴につっこみを入れた。
香は太い幹を見つめる真琴をちらりと見た。
――告白の樹だもんなぁ。手紙の主が告白しに来る可能性もあるよねぇ。
もやもやとした胸焼けのような辛さが香を襲った。
真琴に初めて会ったあの日。白い着物に身を包み、すらりと長い剣を抜いた真琴。一体あの小さな腕でどのように抜いて、どのように持っていたのか。源が言うには真剣というのは通常かなり重く感じるそうだ。その真剣を、片手で持ち、源に闘いを挑んだ真琴。
大抵の格闘家は源の雰囲気に押され、正しく真剣を振るう事すら出来なくなってしまう。
しかし真琴は違った。源の強さを体で感じ、勝負を挑んできた。まだ十歳にもならない少女が、池袋組の組長であり、百戦錬磨の源を闘う相手だと認識したのだ。
あの日から香の頭から真琴が居ない日は無かった。真剣や木刀の訓練を絵美の父から受けている時も、あの娘ならどうやって闘うだろうと考えた。日本一の天才剣道少女・真琴。だが彼女を好きな人は多く、香が真琴と出会ってからも、何度も告白をされているのだ。
――いつか、真琴は誰かを好きになるのかもしれない。
香はその事を考えると憂鬱だった。
――私には、真琴のような美しい容姿も、名誉もない……。
香は掌を見た。何匹もの小動物を殺してしまった手。小さな愛玩動物はちょっと撫でるだけで動かなくなってしまった。誰かを愛する資格など自分にはないと、香は思い続けていた。
真琴の美しい項。それをもし圧し折ってしまったら。何度も、何度も訓練し、力加減を覚えてきた香だが、小動物を殺してしまった過去はまだ忘れられなかった。
真琴の傍には武蔵も居た。ちょっとキザな所があるが、背が高く、きっと人気があるに違いない。サンシャイン通りを真琴と烈と武蔵が歩いていると、誰もが振り返る。美男美女の集団の中に、白いメイド服を着たちんちくりんな自分がいるのを場違いに感じる事もあった。
――私は……真琴を誰かに渡せるの?
いつかは真琴も誰かを好きになるのだ。多額の借金がある家庭に育った香とは違う誰かを。そう思うと香は、まだ見ぬ真琴の恋人に嫉妬し、心の中が炎で一杯になるのを感じるのだった。
「誰か来たぞ」
真琴が見ている方向を香は見た。そこには麻薬密売人と共にいた相沢翼と、その友人の山崎が居た。
――おや、情報源が歩いてやってきた。
香は少し驚いて真琴を見た。真琴はとても残念そうな顔で二人を見ていた。
――はぁ~、真琴ったら本気で決闘状だと思っていたんだ。
「真琴様、お待たせしました」
がりがりに痩せた相沢はそう言って、口元に骨のように細くなった指を持っていった。
「ねぇ、裕紀、真琴様が本当に来てくださったわ。わ、わたいの手紙が情熱的だったからかしら。占い師のビックマリーン様が今日のラッキーカラーは赤って言っていたのは本当だったんだわ」
真琴が少し首をかしげた。
ビックマリーンは今流行っている有名占い師だが、恐らく真琴は知らないのだろうと香は思った。
「何か私に用か」
真琴が少しぶっきらぼうに言った。決闘では無かったのが、残念で仕方ないのだろう。
「わ、私、この間、真琴様に助けていただきましたの」
相沢は頬を染めながら、唇をにやぁと歪ませた。
真琴は暫く考えて、ぽんっと手を叩いた。
「あぁ、あの時の女か」
真琴に告白する人はとても多いのだ。だから心配する必要はないと香は自分に言い聞かせた。そして真琴が麻薬密売組織の事を聞いてくれないかと香は思った。
「気にするな。じゃっ」
そう言って真琴は踵を返した。香は慌てて、真琴の腕を捕まえた。
「えーっと、この間、カレシに絡まれていたんだって真琴に聞いたんだけど、お名前は?」
「カレシだなんて……私は相沢翼、彼女は山崎裕紀。よろしく」
相沢はスカートの裾を摘まんで、礼儀正しくお辞儀をした。香はあっ、どうもと言いながら頭をぺこりと下げた。
「あれから大丈夫だった? またカレシに虐められたりしていない?」
香はわざわざ”カレシ“というのを強調した。相沢はちらりと山崎を見て、優越感に浸った醜い笑みを浮かべながら言った。
「あの時のね……彼と私は切っても切れない関係だから……電話は不通になっちゃったんだけど、また池袋の街角で会えると思うの」
――薬の受け渡しは池袋の街角か。
香は慎重に相沢の言葉を聞いた。
「そろそろ彼に会わなきゃだし……」
そういう相沢に、山崎が抗議した。
「翼、まだあいつと付き合うの? この間、暴力を振われて真琴様に助けて頂いたばかりなのに?」
そう言われて相沢は体をぶるぶると震わせた。そしてぱっと両手を天にかざした。
「裕紀に何が分かるの? いつも幸せでのほほんと生きている裕紀に何が分かるの? 今の私があるのも彼のお陰なんだもの。彼は私を才女にしてくれるの。彼に会ってから成績も上がったし! 真琴様と出会うきっかけも作ってくれたわ!」
そして空を見上げながらくるくると回り始めた。
「彼と会ってね、私は、この空の下の、下界が全て私の世界だって知ったのよ。この学校も、日本も、世界も、海も、全て私の物だったのよ。世の中は全て計画通りに動いているの。裕紀が次に言う事も、先生が次に言う事も私には手に取るように分かる。それは全て計画通りなの! 真琴様と出会うのも必然なのよ!」
真琴はつんっと香の背中を突っつき、小声で帰るぞと呟いた。香も呆然としながら、うんうんと頷いた。
「この間の事は気に留めるな。困っていたようだから助けただけだ。では失礼する」
真琴に引っ張られながら、香はその場を去った。去り際、ちらりと相沢を見ると、彼女はまだくるくると回りながら、大声で笑っていた。
「香、あの手の部類は早く帰るに限るぞ」
「うん、ごめん」
香は俯きながら真琴に謝った。
――しかし池袋の街角が薬の受け渡し場所だというのは重要な情報だ。
香は俯きながら考えた。
――体を観察すると、相沢は麻薬にはまりきっている。あの異様に痩せた体、不可思議な言動。だが見た目から山崎は麻薬に手を出しているようには見えないな。「彼」と付き合っているのは相沢だけか。
香はその時、ふと時計を見た。
「あー、四時半回ってる! あと三十分でタイムサービスが始まっちゃう! 真琴、また明日ね!」
「あぁ」
香は真琴に手を振り、走りながらスーパーへと向かった。
「……いつもながら、こういう時の香の足は速い。体育の時ももっと早く走ればいいのに」
真琴はそう言いながら、最初に出会った時、自分から一本を取った香の姿を思い返した。それからいくら手を抜いて香と試合してもそのような事は起きていないのだが、真琴は香が自分に手を抜いているのではないかという疑問を持ち続けていた。しかし手を抜く理由が分からなかった。誰でも強い事を誇示したがるものなのだ。そして香には実力を隠す理由も何も無かった。
「……部活の勧誘が鬱陶しいからか? 香は家事で忙しいしな」
もし香が良ければ、剣道をやらないか誘ってみようと真琴は考えていた。真琴の両親は二人で各地の道場を破りながら、友達を作っていったという。真琴はいつか、香とそうやって道場巡りをするのが夢だった。香は真琴に勝ったのは偶然だと言っていたが、剣道の闘いにおいて偶然の勝利などない事を真琴は知っていた。
「あやつに負けないよう、私も特訓せねばな」
真琴はくすっと笑いながら言った。
「またね、翼」
「うん、また明日」
相沢翼は山崎裕紀に手を振りながら、自宅がある路地を曲がった。
――一歩、また一歩と家が近付いてくる。
玄関の前に立った時、相沢は既に顔面蒼白になり、体をがたがたと震わせていた。
――八十点……お母さんに、お母さんにまた怒られる。
相沢は鞄の中からハローキティ人形を出した。首を引っこ抜き、その体の中からアメ玉を出し、口に放り込んだ。
――大丈夫、大丈夫よ、翼。私は神だもの。私はトップに立つ女ですもの。お母さんも私の支配下にあるんだから。
相沢はハローキティ人形の体を振った。最初は軽く、それからぶんぶんと振った。だがハローキティ人形の体からアメ玉が出てくる事は無かった。
――どうしよう、もう無いんだ。どうしよう、もうお金もない……。この間、支払いを滞らして、彼に殴られたばかりなのに……どうしよう……どうしよう。
翼は携帯電話を手に取り、キティちゃんという名前で登録されている電話に発信した。
『お掛けになった電話番号は現在使われておりません』
電話から流れてくる自動音声を聞き、地面をだんだんと踏み付けた相沢は、くるりと振り返り、池袋の繁華街に向けて歩き始めた。
「ただいま、兄さん。エミリ、ごめん、これ片付けたらすぐに店に入るからね」
喫茶アリスの扉を開け、香は買い物袋を抱えながらそう言った。
「早くおいで。今日はバイトの面接もあるから」
「面接?」
「あぁ、応募がいくつかあってね。その中からエミリと香と……こういうご時世だからお爺様にも手伝っていただこうかと」
「ふぅん。じゃあ置いてくる」
そう言って香はドアを閉め、エレベーターに向かった。
しばらくして白いメイド服に着替えたカヲルと、菊二郎、源、エミリの四人が、アリスのテーブルを囲んでいた。
「応募総数52347件を百件まであたしが絞り込み、それを菊二郎様に十件まで絞っていただきました」
「身元はどのような者達かな、データ」
源がアールグレイを飲みながら言った。
「この近所に住む者を選びました。源様のお知り合いの子女ばかりです」
源は書類を見て、かっかっかっと笑った。
「確かに。あの子達がもうこんなに大きくなっているのか」
「凄いね。美人ばっかりだ」
カヲルは書類を見ながら驚き、目をぱちくりとさせた。菊二郎はにっこり笑ってカヲルに言った。
「うちはカヲルもエミリも綺麗所を揃えているからね。結果としてレベルが上がったみたいだ」
「エミリは美人だけど……兄さんは、いつも身内贔屓だから。別に妹にお世辞を言わなくてもいいよ」
菊二郎と源とエミリは驚き、互いの顔を見た。
「いや、あのさ、カヲル」
「いいって、兄さん。それ以上言わなくても」
そう、純白のメイド服を着た絶世の美少女は、ロシアンティーを口に運びながら言った。
源は小声でエミリに小声で呟いた。
「香は自分の容姿が劣っていると思っておるのか?」
「はぁ……子供の頃から七海様と比べられて生きてこられましたから、どうも容姿コンプレックスを持ってしまったようです」
「ふぅむ。悪い虫が付かないといいがな」
「大丈夫です。悪い虫が付いたらこのデータ、責任を持って相手を世界から抹消します」
「うむ。お前がそういうなら大丈夫だな。頼りにしているぞ」
「御意」
源はちょっと安心し、アールグレイを口に運んだ。
「カヲルは誰が良いと思う? この中から五人面接しようと思っているんだけど。同じ職場だから、選んでごらん」
菊二郎は微笑みながら、カヲルに書類を手渡した。
「私は……この娘が気に入りました。劉夢莉さんっていう人」
「西口飲茶店の娘さんじゃな。香港系移民二世じゃ。子供の頃は香港で育ち、大学生になった去年から日本で暮らしている。ちょっとやんちゃな娘さんじゃよ」
「お爺様、その……やんちゃと言うのは?」
源は心配そうな菊二郎の顔を見ながら、少し考えた。
「うむ……敵対していた同級生のグループを壊滅させたとか。それがまぁ、ちょっと大きめなシンジケートの子供達でな。いろいろあって、最終的にご両親が日本に呼び戻したそうじゃよ」
俯きながら話す源を見ながら、菊二郎ははぁーと溜息を吐いた。
「大丈夫ですかね。うちは平和なメイド喫茶ですけど」
「大丈夫じゃろ。カヲルが気に入っているのだからな。子供の頃に会っただけだが、正義感の強い可愛らしい娘さんじゃったよ」
「そうですか、なら平気ですかね。カヲル、あとはどの子がいい?」
「この子と……この子と……」
この後、面接を経て二人のアルバイトが採用された。仕事が楽になるね、とカヲルとエミリは手を叩いて喜んだ。
5
次の日。
「行ってきまーす」
香は玄関の扉を閉め、鍵を掛けた。毎朝兄・菊二郎に声は掛けるが、兄が起きている日は一日も無かった。香は眠たそうに目を擦りながら、学校に向かった。
メイド喫茶アリスの上の階には、オタク達が集まる本屋や、カードゲーム屋があり、そのビルから出てくる香は、朝までカードゲームの試合をしていたオタク少年のようである。
ぶかぶかな学生服、太い三つ編み、今時珍しい眼鏡を掛けている香に声を掛けてくるキャッチは皆無だった。
学校でも香は生徒会役員を務めているとはいえ、剣道の全国大会で毎年一位である近藤真琴や、カジノ王の孫娘である韓麻理亜や、歩く美の女神である芹沢エカテリーナ達と同列に語られた事は無かった。「影が薄い」と語られることすらない、忘れられた生徒会役員。それが香だった。
――眠いなぁ。
香は大きな欠伸をした。奨学生である香にとって成績が落ちる事は厳禁だった。さらに池袋若草学園普通科はアルバイト禁止である。メイド喫茶アリスで働いている事は、親友の真琴にも秘密にしなければならない。朝の食事の支度、トレーニング、そして学校、その後にバイトをして、さらに授業の予習と復習があり、香は疲れていた。そんな中でアルバイトが二人入ったのは香にとって朗報だった。
――本当は辞めたいけど、まだ家計が厳しくて、これ以上増やせないみたいだし。でもバイトの時間が減って良かった。
次の模試はいつだったかしら、と考える香の目の前に、相沢翼が歩いていた。
――あっ、相沢さんだ。……でもどこかいつもと違う。
ふらふらと右に左に歩く相沢を、香は注意深く観察した。
――うーん、股の開き方から、激しい性交の後かな。そして手首にロープの痕、右腕をかばって痛そうにしている。何か怪我をしているのかな?
香の脳裏にリンチ、レイプという単語がぱっぱっと浮かんだ。そして香は眉間に皺を寄せた。
――たまにいるけど、あまり知りたくはないよね……。
香は子供の頃出会った少女を思い出した。
裸のまま保護された少女は、香が絵美と遊んでいた斎藤家の子供部屋へと連れて来られた。体中至る所にある痣。焼け爛れた皮膚。股にはこびりついた血糊が付いていた。絵美は来客用の布団を敷き、少女を寝かせた。土方の主治医が呼ばれ、少女の治療が行なわれた。香と絵美はその場にいるよう絵美の父に言われ、部屋の隅に正座し、治療を見続けていた。少女は外国人売春組織から救出された「商品」だった。
ニュースには載らない事件。少女はタガログ語で助けてと、小さな声で呟いていた。香は少女の手を取り、微笑みながら大丈夫と日本語で話しかけた。少女は安心したように、にこっと笑った。だがすぐに痛みに襲われ、顔を歪ませ、呻き声を上げた。
「春の……」
香は少女の横で歌い始めた。
春の小川はさらさら流る。
岸のすみれやれんげの花に、
匂いめでたく、色美しく
咲けよ咲けよとささやく如く。
絵美も香と一緒に歌い始めた。香は少女の汚れて真っ黒になった手をそっと握った。少女は息を落ち着かせ、香達の顔を見た。部屋には簡易手術室が設けられた。少女は麻酔で眠らされ、手術が始まった。小さな体から出てくる異様な物体。壊れたバイブレーターからはバネが飛び出ていた。小さなコインや、細い瓶が少女の体内から摘出された。香と絵美は黙ったまま、じっと手術を見つめていた。手術の最中、少女の脈拍はだんだんと遅くなっていった。医師たちは懸命に処置を施したが、少女の心拍は徐々に、そしてつーっと止まった。不思議な事に笑みを浮かべている少女の死に顔を、香はじっと見続けた。
香の横を山崎が通った。そして相沢におはようと声を掛けた。
香は気配を消しつつ、そっと二人の後ろについた。
「どうしたの、翼。昨日家に帰っていないんだって? おばさんが心配してうちに電話を掛けてきたよ」
「…………」
翼は何かを言いたそうに唇をぴくっ、ぴくっと動かした。
「……どうしたの? 翼……?」
「かえ……がね……あらしを……一番にしてくえるって……心配ないって……もう心配ないって……イヒ……イヒヒッ……イヒヒヒヒッ」
そのまま相沢は大声で笑い始めた。山崎はどうしたの? 一体どうしたの? と言いながら相沢の体に触れた。
「痛い! 触らないで! あにすんのよ! ちょっとテストの成績が良かったからって、調子に乗らないでよ!」
そう言うと、相沢は山崎の腕を振り払って、歩き始めた。ヤメテ、ヤメテ、ヤメテと呟きながら歩く相沢の後ろ姿を、山崎は悲しい瞳でずっと見つめ続けていた。
――麻薬密売組織は未だに健在か。
香は参考書を開きながら、泣きそうな顔をしながら立ち竦む山崎の隣を通り過ぎて行った。
教室でスケジュール帳を出しながら、香は考えた。
――買い物と、勉強と、バイトと、訓練と……時間が足りないな。
香は指でシャープペンシルをくるっくるっと回した。香が持っている文房具は全て源がプレゼントしてくれた特注品だった。
かちかちとシャープペンシルの芯を出す。シャープペンシルが使えるようになったのは、小学校五年生の時だった。絵美の友達が香の為に、強固なシャープペンシルの芯を開発してくれたのだ。また別の友達はそのシャーペンで書ける紙を開発してくれた。それを土方が商品化し、世界に卸していた。世界には香と同じような怪力の持ち主が数%おり、少し高い商品だったが、需要はあった。
――勉強して、大企業に入って、家計を支えなきゃ。その為には勉強しなきゃ。
日々の家事も、勉強も、バイトも訓練も、香には最重要項目だった。
香はふと教室の中を見渡した。友達とお喋りするクラスメイト達。小テストに向け勉強する者。ファッション雑誌を広げ、最新のファッションについて熱く語る者。携帯ゲームで遊びながら任天堂の株価について話し合う者。香は一瞬、自分が陸の孤島にいるような気分に陥った。
辛いのが自分だけじゃないのは知っている。カジノ王の孫娘だと学校でちやほやされている韓でさえ、年に数度、命を狙われている。クラスメイトの数人がドラックに手を出し、情緒不安定になっている。二つ前の席の女の子はいつも誰かに性的暴力を受けている。癌の宣告を受け、投薬により髪の毛が減ったクラスメイトは、それをスキンヘッドファッションだと友達に言っていた。誰もが人には言えない秘密と共に暮らしていた。
だが、誰もが人に言えない秘密を持っているからといって、香の辛さが減るわけでは無かった。毎時間襲ってくる眠気。いつの間にかノートに書かれた意味不明な文字。金銭的な不安。
香はたまに、自分に良く尽くしてくれる絵美の家庭が羨ましく感じる事があった。バベルの周辺に広がる雑居ビルに暮らす香の家と、広い門構えの斎藤家。そしてその家の数倍の広さはある土方本家。ただただ勉強に集中出来る従姉弟達の環境を羨ましく思った。
だが母はその土方家から出る事を選んだ。自分の力で生活をしていく。自立して、家族を養っていく。YAKUZAと手を切らない土方を、母は嫌っていたと聞く。世界的大企業とYAKUZAの関係。それを断ち切ってくれと、母は祖父に懇願した。だが祖父は出来なかった。詩が好きで優しい祖父は、YAKUZA組織である池袋組を潰す事が出来なかった。
香はシャープペンシルをかちかちやりながら、池袋組の若者達の事を考えた。貧しさから脱出出来ない若者達、ただ暴力にのみ特化した能力を持ってしまった若者達。また日本という国の中で、差別を受けて生きている若者達。母にも、父にも、社会にも見捨てられた者達が最後に流れ着くのがYAKUZA組織だった。
香は道場で彼らと会い、彼らを訓練しながら、自分の力加減を学んでいた。最初、組織に来たばかりの時は疑心暗鬼に包まれた青年も、香の前でゆっくりと笑顔を取り戻していってくれた。
――私は彼らを切れるのだろうか。……母のように。
社会から見捨てられた者達を職業訓練するといっても、並大抵の努力では出来ない。彼ら用に職業訓練施設を作ろうと、彼ら用にセーフティーネットを張ろうと、それに”気付けない立場“にいるのが社会から零れた者達なのだ。
――母も……それを知っているはずなのに。
そこで香はふと、ここ数日帰って来ない母親の事を思い出した。
――そういえば帰って来てないな。どうしたんだろ?
また母が大勝ちして有頂天になり、さらに金使いが荒くならないといいなと香は思った。ギャンブルは負ける事よりも、勝って不労所得が増える方が深刻な問題になるのである。
「香、おはよう」
そう言いながら真琴は香の机をじっと見た。香がふと机を見ると、シャーペンの芯で掘った線が、机にくっきりと残っていた。香は机の傷を隠しながら、あはは、真琴、おはよう、と返事をした。
机に向かいながら、相沢翼は俯き、かたかたと体を震わせていた。
――翼! 昨日は何をやっていたの? 山崎さんに聞いたわよ! テストの結果が出たんでしょ? 見せなさい!
翼の頭の中でびしっという音が木霊した。暗闇に浮かびあがった母は、何度も何度も布団叩きで翼を叩いた。翼はただ黙って俯いて耐えていた。
――どうしてこんな簡単な問題をミスするの? お父さんとお母さんの子でしょ? もっと出来るはずよ。ほら、この問題も、この問題も……簡単じゃないの。お母さん達の時代はもっと難しかったのよ。翼なら出来るわ。もう、どうして集中力が欠如しているのかしら。私達の子なのに。
教室の中で、相沢翼は一人、母に打たれるのを我慢していた。
――翼、もっと出来るでしょ。私達の子だもの。どうして間違えるの? どうして分からないの? どうして、どうして、どうして……。
翼の耳にはばしっばしっという母が自分を打つ音が、何度も繰り返し響いていた。叩かれる翼の体はどんどん小さくなっていった。幼稚園の頃着ていた赤いワンピース。母に叩かれ垂らした鼻血を染み込ませた、赤い、とても赤いワンピースを翼は着ていた。翼はぎゅっとワンピースの端を握り締め、痛みを我慢していた。
――なんで私は出来ないの? お母さんが求めるように。私はお母さんとお父さんの子供じゃないの? どうして間違えるの? 何度も繰り返し解いた問題なのに。どうしてその応用問題が解けないの?
相沢翼の体はいつしか周囲の生徒が気付く程、かたかたと大きく震えていた。
「翼、翼」
山崎が後の席からそっと相沢に声を掛けた。だが相沢は気付かず、体をかたかたと震わせているだけだった。教室のどこかから、笑い声が漏れた。意地の悪い少女達がひそひそと話しながら、相沢を指差した。
「つばさ……」
山崎がそっと相沢の背中をつつくと、相沢はきぃえええっと奇声を上げた。
「何するの! 叩かないでよ!」
「そこ、うるさいぞ」
「先生、山崎さんが私の背中をぶつんです!」
「山崎、止めなさい。相沢も席に着きなさい」
はい、と言いながら相沢は席に着き、また体をかたかたと震わせ始めた。
山崎は最初、ぽかんと相沢を見ていた。しかしその後、何かを決心したように目を細め、きゅっと唇を噛んだ。
授業の終了を知らせるチャイムが鳴ると、山崎は相沢の前に立った。
俯いていた相沢が窪んだ目を山崎に向けると、山崎はありったけの笑顔を相沢に向けた。
「授業が終わったよ、翼。今日は翼の分もお弁当を持って来たんだ。屋上に行きましょう」
山崎がそう言うと、相沢はこくんと頷き、痩せ細った体をゆらゆらと揺らしながら立ち上がった。
「ねぇ、翼、相談があるんだけど」
そう山崎が言うと、相沢は何? と答えた。
「翼が飲んでいる薬、私にも売ってもらえるかな」
山崎にそう言われると、相沢はびくっと体を震わせた。
「もちろん無料でとは言わないわ。翼は中間マージンを貰っていいからさ。今日、彼氏を私にも紹介して。今日の分は翼の分も私が買ってあげる」
山崎がそう言うと、相沢はみるみるうちに明るい表情を取り戻した。
「本当? 裕紀、私の分も買ってくれるの? 嬉しい!」
相沢はそう言うと、山崎に抱き付いた。
「ありがとう、裕紀、ありがろう」
そう言いながら喜ぶ相沢を抱きしめながら、山崎はうんうんと明るい声で答えた。しかしその瞳は何かを決心したように強く、それでいて冷たく暗く輝いていた。
「やっほー、カヲルちゃん!」
烈が手を振りながら、メイド喫茶アリスに入ってきた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
カヲルはそう言いながら、心の中で烈人形を何度も踏みつけた。
「やぁ、カヲルさん。いつもお美しい。おや、新人だね」
烈の後ろから、仕立ての良いスーツを着こなした武蔵が入ってきた。
「お帰りなさいませ、ご主人様。貴女達、こちらにいらっしゃい」
はい、という元気の良い声を上げながら、二人の少女がカヲルの後に立った。
「こちらは新人の夢莉さんとあいさんです」
「夢莉デス。よろしくネ」
「あいです! よろしくお願いします」
「いや~、彼女達、美人だね~。つか、あいちゃん、本当に十八歳? メイド喫茶は十八歳以下のバイト禁止だよ」
にやけ顔の烈がそう言うと、カヲルとエミリと菊二郎がぎくっとした。それから家業の手伝いは大丈夫なのだという事を、三人は思い出した。
あいはにっこり笑いながら、烈に返事をした。
「はいっ、今年から大学生です」
「きゃわいいねぇ、そう思わないか? 武蔵」
「ふむ。しかし男だからな。ボクの管轄外だ」
「そう男……えー!」
烈は慌てながら身長百五十センチ程のあいと、何故か自分を交互に指差した。
「あいちゃん、男の子?」
「えぇ、そうですよ。僕、男です。なにか?」
「えー、この可愛らしさは反則だろ~。まぁ、いいや、男でも。よろしく、あいちゅわん」
烈は冷たい視線を感じ、はっとカヲルを見た。
「烈様って、ロリコンだったんですね」
「ちょっとまってよ、カヲルちゃん。あいちゃんは十八歳だって、ロリじゃないって。っていうかカヲルちゃんだってロリの領域っしょ」
「わ、わたくしは、少女じゃありません」
「僕も少女じゃないよ。ねぇ、カヲルちゃん」
そう言って、あいはぎゅっとカヲルの手を握り、ねーっと言った。カヲルはすっと手を放し、はしゃぎすぎですよ、とあいをたしなめた。
「夢莉さんは留学生かなにかで?」
武蔵が席に着きながら聞いた。
「ご実家は池袋ですよ、ねぇ、夢莉さん」
菊二郎が紅茶を淹れながら夢莉に声を掛けた。
「ワタシはこの間まで香港暮らしだったヨ。大学生から実家で暮らすネ。ママが日本の喫茶文化を勉強しなさいって、ここのバイト募集のチラシを持ってきてくれたヨ」
「良いお母様だね。ここは素晴らしい喫茶店だよ。頑張って」
武藏が優しい笑顔を浮かべてそう言った。
「はい」
夢莉は少し頬を赤く染めながら、武蔵に返事をした。
「まーた、この女ったらしが」
「たらしではない。女性には優しく接するのがボクのポリシーさ」
「なーにがポリシーなんだか。この間も俺は知らない女から剃刀入りの封書を貰ったぞ」
「……それはどういう意味かね?」
「嫌がらせだよ、嫌がらせ。俺と武蔵が付き合っているって誤解したんだそうだよ」
「それは一〇〇パーセントありえないな」
そう武蔵が言った時、あいが、えーっと声を上げた。
「お二人ってカップルじゃないんですか。僕、てっきり」
「ワタシもそう思っていたヨ」
そう言うあいと夢莉に、烈と武蔵は互いを指し、声を揃えて「ダチだから」と言った。
ピアノの旋律が静かに流れる一時。お客様から注文を頂き、飲み物を運ぶ。疲れるとはいえ、カヲルはこのバイトの時間が気に入っていた。兄と自分が作ったお城。白い壁。華奢なティーカップの滑らかなラインには、繊細なタッチで少女の絵や、うさぎの絵が施されている。アリスのティーカップは多くがアンティークで、取っ手が少し小さい。その取っ手をお客様が優しくつまみ、兄が淹れた紅茶を口に運ぶ。お客様の多くは池袋に遊びに来るオタクな方達で、大学生からミリタリーウェアに身を包む方まで多岐に渡る。オタク産業に従事しているクリエイターも多く、仕事なのか、萌え話なのか分からないような会話をしている方もいた。
――お爺様と、常連の方数人から始まった喫茶店が、こんなに繁盛するなんて。
これが自分の本業でない事をカヲルは知っていた。勉強して、大企業に就職するのがカヲルの目標であり、兄の願いだ。母の借金を早く返済出来るよう、稼がなければならない。夢莉のように後々飲茶屋を継ぐための修行というわけではない。
でもあまりにも楽しいこの仕事が、自分の本業なのではないかと錯覚してしまう。
菊二郎がカウンターの奥からチラシを出してきた。
「カヲルさん、チラシ配りをお願い出来るかな」
「はい」
チラシを受け取りながら、カヲルはバイトが増えて良かったですね、と菊二郎に言った。
「そうだね。エミリちゃんにも無理させたから」
「バトラー、私の事はご心配なく。夢莉さんとあいさんはしっかり教育して、一人前に育てますからね」
エミリはにやりと笑い、二人を見た。
「エミリさんは怖いネ」
「うん。僕もそう思います」
夢莉とあいは顔を見合せて、体をふるっと震えさせた。
「では行ってきます」
「気を付けて行ってらっしゃい」
菊二郎がカヲルを送り出そうとすると、烈と武蔵が立ち上がって会計を済ませた。
「俺も手伝うよ、カヲルさん」
「ボクも一緒に行こう」
「よろしく頼みます」
菊二郎は深々と頭を下げた。カヲルは少し頬を赤らめて、もう、兄さんってば心配症なんだから、と思った。
三人が店を出ると、店の前でうろうろと歩いていた真琴が目に入った。
「アネキ、こんな所で何してんのさ」
烈が少し呆れて真琴に声を掛けた。
「う、うむ。カヲルさんの様子を見ておこうと思ったのだが……」
そこまで言うと、真琴は少し恥じらって、俯いた。
「ははぁ~ん、メイド喫茶に入るのが恥ずかしかったんだな?」
烈が意地悪そうににやっと笑った。
「いや、まぁ……慣れないからな。ところでそのチラシ……カヲルさん、チラシ配りですか? 手伝いますよ」
真琴はにっこりと極上の笑みをカヲルに向けた。カヲルは真っ赤になりながら、はいと答えた。
――いつも見ている笑みなのに、赤面したらダメじゃない、カヲル。
「チラシをお持ちしましょう。カヲルさんは立っているだけでいいですよ。お疲れでしょうから」
カヲルははいと言ってチラシを渡した。体調を気遣ってくれるとは、なんて真琴は優しいのだろうと思った。
「ちょっと待てい、真琴。その役目はこの三人の中ではボクが一番似合っているだろう。そう思わないかね? 烈」
「何故そこで俺に振るの。俺の立場は?」
三人は話し合い、チラシを三等分して配る事に決めた。
バベルの一階を通る巨大なサンシャイン通り。池袋の街は闇に包まれ、会社帰りの者達が、少し浮かれつつ歩いていた。町を照らすネオンの灯りは昼間よりも明るくなっていた。池袋の中心にあるバベルは巨大な光の柱だった。人々は蝶のようにその光の中へと吸い込まれていった。
「マスターって、ちょくちょくチラシを配らせるよね。今はネットの時代なのにマメだなぁ」
烈がチラシをひらひらとさせながら言った。
「インターネットのお客様はもちろん大切なお客様なのですが、喫茶店はやはり、地元の常連さんが何人付くかで収入の安定度合いが変わりますから。ネットのお客様は流行り廃りが速すぎますし。……偉そうな事を言いましたが、これはバトラーさんからの受け売りなのです」
「うん、その通りだ。バトラーは分かっている」
「そうだな、うちの近藤道場も学校巡りして生徒募集をしている。当然サイトもあるが、やはり学校巡りが一番生徒の確保に繋がるしな」
武蔵と真琴がうんうんと頷いた。
「そういうもんかね」
烈は不思議そうにチラシをじっと見た。
「本当はティッシュペーパーと一緒に配った方が効果的なんですけど、経費節減で、可愛い用紙に印刷したチラシなんですよ」
「いやぁ、カヲルさんが立っているだけで、宣伝効果抜群でしょ」
烈が笑いながら言った。
メイド姿のカヲル、白い剣道上着と袴の真琴、細身にリーバイスのプレミアムジーンズを着こなす烈、テイラーメイドスーツの武蔵。街のネオンの光が、彼らの、いやカヲルの周りで輝きを増し、それはさらにカヲルを囲む三人によって増幅していた。
「何あれ? アイドルのプロモーション?」
道を行く者達はカヲル達をカメラに収め、次々とブログや、画像サイトへとアップロードしていった。情報は瞬く間にネットの海を駆け巡った。女子学生達はカヲルと一緒に写真を撮りたがった。カヲルは快く引き受けながら、チラシを配っていた。
男性達はただただ遠巻きにカヲル達を見ているだけだった。
武蔵と烈は遠巻きにしている男性達にどっちがチラシを配りに行くか押し付け合っていた。
その時、カヲルがふと空を見た。
「なんでしょうか……」
真琴は手を止め、カヲルが見ている方向に目をやった。ビルの隙間から明るい満月が地上を照らしていた。烈と武蔵は手を止め、カヲルを見た。
「何か……厭な空気が流れていますわ……」
サンシャイン通りの人混みが、少しずつ解消されていった。先程まで聞こえてきていた喧騒が、ぴたりと止んだ。
「嫌な感じがします。アリスに戻りましょう」
その時、真琴の視界にスーツを着た男達の姿が入った。街の路地に潜むように三人。胸元に武器を隠し持っている。普段なら気付かない距離だろう。真琴は敵かと思い一瞬緊張したが、すぐに緊張を解いた。彼らはむしろ、カヲルを中心に立ち、カヲルを守っていた。
――あれは誰だ?
あっという間に彼らは姿を消した。人混みが解消された最初の一瞬だけ、姿が見えたようだった。
――……どうみても堅気には見えなかったな。
真琴はちらりとカヲルを見た。カヲルは心配そうにサンシャイン通りを見つめている。
――まぁ、こんなに可愛らしいお嬢さんだ。ご両親が雇ったボディーガードなのかもしれないな。
サンシャイン通りの人混みは、あっという間に半分ぐらいに減った。それでも平日の夜の日本の繁華街としては混雑していた。薬を売る者がふわぁと欠伸をし、街角に立っている客引き達が雑談を始めた。
「どうしたの、カヲルちゃん。まだ人はいるよ」
烈がそう言った時、真琴とカヲルの視線の先に、相沢翼と山崎裕紀が立っていた。
「……ダメ!」
カヲルは彼女達の方向へと走り始めていた。何なのか分からない危険を感じ、止めに入ろうとしたのだ。
しかし同時に真琴は前方へと跳躍し、カヲルの腕を握った。真琴もまた危険を感じ、その方向へと走り始めたカヲルを咄嗟に止めた。
カヲルと真琴の体はくんっと引っ張り合い、反動で二人はぶつかり合った。
「なんだ?」
武蔵はそう言って、カヲルが見つめる方向を見た。烈も武蔵とカヲルの視線の先を目で追った。
それはまるでスローモーションのようだった。
山崎裕紀は相沢翼の隣に立つ男性に何かを一言二言言った後、ボストンバックから取り出した包丁で彼の胸を深く、とても深く刺した。
「きゃああああああ!」
サンシャイン通りに響き渡る相沢の甲高い叫び声、それと同時に山崎は路地裏へと走り去った。
「俺が追いかける」
烈は武蔵にそう言うと、山崎が向かった路地へと走っていった。武蔵は頼む、と叫んだ。
「手当をしないと」
カヲルは真琴の手を握りながら、怪我人へと歩み寄った。その時。
「いやぁ、タク! タク!」
そう言った相沢が、男性の胸に刺さった包丁を抜き、地面に投げた。武蔵はさっとカヲルと真琴の前に立ち、二人を制した。武蔵の足元にからからからという音を立てながら、包丁が投げ捨てられた。
武蔵は胸ポケットから白いハンカチーフを取り出すと、包丁を包んだ。そしてそれを怪我人の近くの壁に置いた。
怪我人の胸の辺りから、鮮やかな赤い染みがみるみる広がっていった。ひっ、ひっ、と体を痙攣させ、怪我人は道路に横たわっていた。真琴は救急車を呼んだ。
「なんなの? 一体なんなの? 裕紀、裕紀はどこ?」
相沢翼はぶるぶると震えながらタクと呼んだ青年の体を叩いた。
「ねぇ、タク、起きてよ、起きてよ!」
カヲルは相沢の項に優しく手を置いた。すると相沢はふっと意識を失い、体を前屈させた。カヲルはそっと彼女を支えると、武蔵に言った。
「彼女を見てあげてください」
武蔵は頷き、相沢を肩に乗せた。
サンシャイン通りはさらに人通りが少なくなっていた。残った者達は観光客らしかった。カヲル達を囲み心配そうに覗いたり、携帯電話のカメラで事件現場を撮っていた。
「血が……血が止まらない」
カヲルは両手をタクの胸に当て、Tシャツの上から止血を試みた。だが血はしわじわとTシャツに広がっていった。
「カヲルさん、この袖を使いなさい。さっき新しくおろしたばかりだから清潔だ」
そう言うと真琴は剣道の白い上着の袖を強く引っ張り、外した。そして袖を軽く畳み、カヲルに手渡した。真琴の、袖に守られ日焼けしていない白い腕が露わになり、カヲルは真っ赤になった。
――こんな時に……私ったら真琴から視線が逸らせない。
ありがとうと言って袖を受け取りながら、カヲルは真琴の腕を見た。元々色の白い真琴の顔は日々のランニングにより日焼けしていた。しかし腕は一年中長袖に守られ、白いままだった。真琴の鍛えられたしなやかな腕は芸術的な美しさを放っていた。
「まったくお前は乙女の恥じらいというものがない。これを羽織りたまえ」
武蔵はそう言って、ジャケットを脱ぎ、真琴に手渡した。真琴はすまんな、と答え、さっとジャケットを羽織った。
――あぁ……。残念。
そう思った瞬間、カヲルは真っ赤になり、タクに視線を戻した。
――真琴は一生懸命彼を救おうとしているのに、私ったら淫らな事を考えて駄目じゃない!
カヲルは顔を真っ赤に染め、タクの胸を押さえ続けた。
その時、けたたましいサイレンと共に救急車が到着し、タクと呼ばれた青年を搬送した。
武蔵は救急隊員に相沢を渡し、彼女の血液検査をして麻薬の反応が出ないか調べてくれ、と言った。そしてその検査結果を知らせてくれるよう頼み込み、自分の名刺とチップを救急隊員に手渡した。
警察が到着し、サンシャイン通りには黄色い通行止めのロープが張られた。それでも観光客は池袋というエキサイティングな都市のシーンの一つとして、興奮気味に現場を見続けるのだった。
「カヲルさん、これで手を吹きなさい」
武蔵は鞄からウェットティッシュを取り出し、カヲルに手渡した。カヲルはありがとうございますと言って受け取り、赤く染まった手をウェットティッシュで拭いた。
「アリスに行きましょう。お茶を飲んで行ってください。真琴さんの服も用意します。……それにしても烈様はどうなさったのかしら?」
武蔵と真琴は顔を見合せた。
「そう言えば遅いな。もう連れて帰ってもおかしくない時間だ」
真琴が時計を見た。
「とりあえずアリスで待ちましょう」
その時、刑事が駆け寄り、真琴に声を掛けた。
「真琴じゃないか。どうしたんだ、そんな姿で」
「剣一叔父さん」
剣一は手を真っ赤に染めたカヲルをじっと見た。そして真琴と武蔵に言った。
「この娘さんは? まさか……犯人?」
そう言う剣一に真琴がふるふると首を振った。
「いや、私の知り合いです。彼女はカヲルさん。メイド喫茶アリスのメイドさんですよ。被害者の止血をしてくれていました」
「これは失礼な事を言った。カヲルさん、すまなかった。私は近藤剣一、真琴の叔父で、警視庁に勤務していてね。被害者とは知り合い?」
「いいえ。真琴様と武蔵様と……今、ここには居ないのですが烈様がわたくしのチラシ配りを手伝ってくださったのです。そうしたら目の前で女の子が彼を刺して……驚きましたわ。今、烈様がその子を追いかけている所です」
「烈が? あちゃー」
剣一は頭を抱え、宙を見上げた。
「あいつは足が遅いから、今頃取り逃がしているかもしれんな。電話してみるか」
それを聞いたカヲルは、深い後悔の念に襲われた。
――烈の足が遅い事を私も知っていたのに……判断を誤るだなんて!
剣一の電話に烈はすぐに出たらしかった。それから剣一は険しい顔付きで携帯電話の向こうにいる烈と話し、電話を切った。どうも剣一の予想通り、烈は犯人の少女を取り逃がしたようだった。
「女の子は逃げたようだよ。どうも同じ学校の同級生らしい。山崎裕紀だと言っていた。真琴、間違いないな?」
真琴は暫く考え、恐らく間違いないと思うと言った。
「おいおい。まぁいい。烈が言うなら間違いないだろう。時間を取らせて悪かったな。カヲルちゃん、疑って悪かった。今度店に遊びに行くよ」
カヲルはいらして下さいと言って、チラシを渡した。
「あれ、この店は土方の……」
「叔父さん、会った事がありましたっけ。友達の土方香のお兄さんが経営している店なんですよ」
「あぁ、一度、本家で会った事があったな。あの三つ編み眼鏡のお嬢ちゃんだろ。あぁ、あの子、土方七海の……あれ?」
そう言って剣一は、じっとカヲルを見つめた。
「でも土方七海の娘は金ぱ……」
「刑事さんって素敵!」
その時、カヲルが剣一に飛びかかり、口を塞いだ。剣一の体は反動でダンスをするようにくるくると回り、真琴と武蔵から遠ざかった。
剣一は足を止めると、抱き付くカヲルをそっと持ち上げた。
「やっぱり……香ちゃんだよね?」
カヲルは指を唇に当て、そっと囁いた。
「土方の家業は真琴には内緒なんです。それに今、家計が火の車でどうしても喫茶店で働かなきゃならなくなりましたの。学校はバイトが禁止ですし……近藤のお兄さん、黙っていてくださいますわよね?」
「そういう理由か。分かった、手を打つよ。いつも検定試験の時に手伝って貰ってるしね」
そして剣一はカヲルを降ろし、にっこり笑った。
「真琴と友達になってくれたのか。あの子、小学生の頃は友達が出来なくていつも孤独だったんだ。ありがとう」
カヲルは剣一ににこっと微笑み返した。剣一は天使のようなカヲルの笑みを見て少し頬を染め、あぁやはり七海さんの娘さんだなぁと思った。
「しかしちょっとお化粧しただけで見違える程可愛くなったね。香ちゃんだって気付かなかったよ。まだまだ子供だと思っていたのに、成長したなぁ」
「そうですか? これは絵美が作ってくれた特殊変身ツールのオプションなんです。ナノテクがどーの言ってました」
「ふぅん」
剣一はカヲルからそう聞いて、ナノテクノロジーを使った新しい化粧品の一種なのかなと思った。
「今度、アリスにもいらしてください。兄が喜びます」
「うん、お邪魔するよ。じゃあまた」
カヲルは手を振りながら、真琴達の所へと戻って行った。
「カヲルさんって刑事が好きなの?」
武蔵がカヲルを見ながら言うと、真琴がちょっと複雑な表情をしながら横を向いた。
「ええ、まぁ。ドラマ以外で見たのは初めてだったのです。ほら、今流行りの刑事物ドラマがありますでしょう? 男二人がペアになって事件を解決するっていう」
カヲルは瞬時に言い訳を考え、武蔵に答えた。
「あぁ、あれね。ぼかぁ観た事がないが、知り合いの女性がファンだよ。そうか、そうだな。うん、刑事はアイドルみたいなものだからな」
武蔵がそう言うと、真琴は納得したようにうんうんと頷いた。
「アリスに帰りましょう」
カヲル達は事件現場を後にし、メイド喫茶アリスへと向かった。
メイド喫茶アリスの扉をカヲルが開けると、心配そうに入口を見つめる菊二郎と目が合った。
「カヲル! ……さん、心配したよ。真琴様、武蔵様、お帰りなさいませ」
菊二郎がそう言うとエミリを含む三人のメイドが入口に並び、お帰りなさいませ、ご主人様と言った。
「この店も豪勢になったねネ」
武蔵がエミリに導かれるように奥の席に座った。
「外が騒がしいが、何かあったのかい?」
菊二郎は焼き上がったスコーンをオーブンから出しながら、カヲルに言った。
「はい、バトラーさん。外で事件がありました」
「それで血の匂いがするのか。巻き込まれたのかい?」
「怪我人の治療をしましたの」
「手を洗って服を着替えて来なさい。エミリ、手伝ってあげて」
「はい」
エミリはお辞儀をし、手を洗っているカヲルに、手を洗い終わったら更衣室に行きましょうと言った。
「真琴様、武蔵様、お茶はいかがですか」
少し疲労している二人に、菊二郎が声をかけた。
「ボクはカモミールを。真琴はどうする?」
「私も同じのを」
「かしこまりました」
真琴と武藏は水を一気に飲んだ。
武藏はふぅっと溜息を吐いて言った。
「しかし驚いたな。あんな華奢でか弱そうなコが人を刺すなんて」
「うむ」
「真琴。よくカヲルさんを止めてくれた。彼女は確かに強いが、あの時は事件に巻き込まれ怪我をする可能性もあったからな」
「…………うむ」
「……お前、何も考えていなかったな。まっ、そのお陰でカヲルさんが助かったから良しとするか。彼女はまだ対戦慣れしていないのかね。殺気を感じられても、危険度の判別が出来ないらしい。やはりこう、ボクのような強い者が彼女を守ってあげないとネ」
「ははは、だがカヲルさんのほうが武藏より早いぞ。おぬしも更に特訓しないとな」
「お前って本当に……」
武藏は俯いて眉間を人差し指でぐりぐりと押した。
「……まぁ、いい。真琴がそう言うなら、事実なんだろう。しかしボクより早いって、どんな訓練を受けて来たンだか。ミステリアスな人だ。何かこう、彼女には普通とは違うものを感じるネ。
あー、燃えるナァ~。ぼかぁ、彼女のためなら、訓練でもなんでもしちゃうヨ」
「そうだな」
その時、カモミールティーをあいが運んできた。
真琴と武藏はカモミールティーをゆっくり飲み、ほうっと一息吐いた。
外で事件が起きているというのに、この店の落ち着きはなんだろうと真琴は思った。日常から隔離され、喧噪とも離れ、ゆったりとした音楽を聴きながらメイドに奉仕される仮想空間。その落ち着いた空間で心を癒す。メイド喫茶とは卑猥な場所だと考えていたが、これが本来のあり方なのかもしれないと真琴は思った。
菊二郎はまさに荒んだ現代人の心を癒すような空間を見事に作り上げている。客の中には何人か女性もいて、雑談を楽しんだり、ゆったりと読書を楽しんだりしていた。巨大な娯楽商業施設バベルのお膝元にあるメイド喫茶アリス。この店は池袋のオアシスなのだろう。真琴はこの時、香の兄・菊二郎が何故メイド喫茶を開いたのか分かったような気がした。
更衣室に入ると、カヲルは険しい表情をし、腕を組み、壁に寄り掛かった。
カヲルの前には、足を揃え、両手を前に組んで、静かに立つエミリがいた。だがエミリの瞳からは店に立っている時の日差しのような明るさは消え失せていた。丸い眼鏡の奥は氷の様に冷たく光っている。
カヲルは静かな、それでいて響きのある声で言った。
「データ、山崎裕紀とその親族の出金記録を常時監視してくれ。あと相沢翼の携帯履歴を調べられるか?」
「はい、もちろんです。今、携帯端末から家のPCをリモートコントロールしてします。お嬢、一体何が起きたんです?」
「相沢翼の親友である山崎裕紀が薬の密売人を刺して逃走した」
そうカヲルが言うと、データの顔はさっと青ざめた。
「烈に追わせたが見失ったそうだ。私の失態だな」
そう言ってカヲルは壁から離れ、赤いルビーに触れた。
「クリーニング」
カヲルの声に反応し、ルビーが輝きを放った。輝きに包まれ、所々赤い染みが着いた白いメイド服はみるみるうちに染み一つない純白のメイド服へと再構成された。
「お嬢、気を落とさないでください。このデータ、必ず取り押さえましょう」
「恐らく麻薬密売組織も山崎の行方を辿るはずだ。その邪魔は出来るか?」
「はい。やっております。ただ相手のクラッカーも強力な者のようです。オレが張っているセキュリティーが先程から凄いスピードで破られています」
「データはそのまま即帰宅し、自宅で調査を行ってくれ。遠隔操作より確実だろう。山崎の口座から出金データがあったら私のサブアドレスに送ってくれ。カヲルの携帯履歴も監視されている可能性がある」
「分かりました」
そう言うとエミリは鞄を持ち、お先に失礼しますと言ってお辞儀をした。
「待て、兄には私が事情を説明しよう」
カヲルはさっと髪をかきあげ、少し困った表情をしながら更衣室を出た。
「バトラー、エミリさんが具合が悪いそうです」
カヲルが胸元に両手を組みながらそう言うと、菊二郎は少し悲しそうな顔をした。
「それは大変だ。今丁度閉店時間を早めようかと考えていた所なんだよ」
そう言うと菊二郎は夢莉とあいに着替えて帰宅するよう伝えた。
「ご主人様方、申し訳ございません。近くで事件が起きたようです。ご主人様方の安全のため、本日はこれにて閉店とさせていただきます。お会計はサービスいたします。またのご来店をお待ちしております」
客が帰り仕度をする中、カヲルが真琴と武蔵に残ってくださいましね、と囁いた。
客も、三人のメイドも帰宅し、喫茶アリスはカヲル、菊二郎、真琴、武蔵の四人だけになった。
「事件について詳しく話してくれないか」
そう菊二郎が言うのと同時に、烈がメイド喫茶アリスに入ってきた。
「ただいま。剣ニイから聞いていると思うけど、取り逃がしちまった。ごめん!」
冷たい空気が流れる中、烈は席に着き、マスター、カモミールと言った。
「もう店閉いしてしまったので、コーヒーでいいですか」
「うん。あとお水をよろしく」
カヲルが出した水を烈は一気に飲み干し、はぁぁと息を吐いた。
「いやー、走った走った。JRの中央改札付近までは追いかけたんだけどさ、その辺から見失ってしまって。一応その周辺と西口まで探したんだけど、居ないから帰って来たよ」
「烈にしては良くやったな」
真琴がカモミールを飲みながら、そう言った。
烈はちょっとしゅんと落ち込みながら、コーヒーを飲んだ。
「それで、何が起きたんです?」
菊二郎は席に着き、水を飲んだ。
眉間に皺を寄せ、首を横に振りながら、武藏が菊二郎に説明した。
「傷害事件ですよ、バトラー。真琴の同級生がいきなり僕らの目の前で男性を刺しましてね。真琴、あの錯乱していた娘、アリスの動画に映っていた娘かい?」
「うむ。あの時に助けた隣のクラスの子で、名前を……相沢翼っていったと思う。この間、お礼を言われたのだ。隣には今日男性を刺した山崎裕紀がいた」
「あの相沢という娘さんは何か変な感じだったな。薬でもやっていそうだった。体は妙に軽くて、まるで骨だけのようでしたよ」
武蔵がそう言うと、菊二郎が辛そうな声で言った。
「麻薬依存の……それも中期から末期ですね。可哀そうに」
「結局、彼氏がドメ男だから暴力を振るわれたンではなくて、元々麻薬中毒患者と売人の関係で、その揉め事だったってわけか。一応救急隊員には麻薬チェックをしてくれるように伝えておいたよ」
「ありがとう、武蔵」
真琴は武蔵に頭を下げた。
「いやいや礼には及ばんよ。上手くいけば検査結果が届くはずだ」
「これまでの経緯を整理すると、前にカヲルさんと真琴ちゃんが助けた女の子が相沢翼。彼女は麻薬依存になっていて、トラブルを起こし、サンシャイン通りで麻薬密売人の男性に殴られていた。それを助けた真琴ちゃんに、後日、相沢翼と山崎裕紀がお礼に来た。そして今日、山崎裕紀が麻薬密売人を刺し逃走、相沢翼は麻薬密売人と共に病院へと運ばれたという事かな」
そう菊二郎が言うと、四人はこくんと頷いた。
「では山崎裕紀の身元確保が最優先ですねぇ。警察も動いているだろうね」
菊二郎がそう言うと、カヲルが小さく手を挙げて言った。
「それについてはわたくし、こちらを紹介してくださったデータさんに相談してみたのです。そうしたらデータさんがメールをくださいまして、山崎裕紀の発見に協力してくださるとおっしゃってくださいました」
カヲルがそう言うと、烈と武蔵が同時に、データが? と言った。
「カヲルさんはデータとメル友なのですか?」
烈にそう質問され、カヲルは少し困ったような表情をした。
「えっ、ええ。私が就職先に困っている時に、こちらを紹介してくださったのもデータさんですから」
「さすがカヲルさんです。ネット界の帝王を味方に付けるとは」
烈が目をきらきらさせながら、ほぅ、と溜息を吐いた。
「データさんというのは、ネットでの有名人なのか?」
真琴はちょっとむっとした表情をしながら、烈に聞いた。
「まぁ、ネットサーフしていればいつかは耳にする名前だよ。身元も年齢も国籍も不明。『アングラな噂@ウィキ』のデータの記述には、あらゆる政府のコンピューターにハッキングした過去があると記されている。そんな大物クラッカーだよ」
「あくまでも噂だけどね。ボクン所のメイドサイトにも書き込んでくれた事があるけど、至って普通の青年だった。オタクでアニメとかメイドとかにも精通しているアングラサイトの有名人さ」
「彼って本当にデータだったのかな」
烈がそう武蔵に聞くと、武蔵はにやりと笑って答えた。
「そうじゃないかな。彼がうちのサイトに残したIPの会社は、無人島もない太平洋のど真ん中が住所だったよ」
「ヒュー、そりゃ本物だ」
烈が口笛を吹いて、驚いた。
「でもか弱き乙女の勤務先を探してあげるなんて、優しい青年じゃないか。ぼかぁ彼を支持するよ」
「それは私も同意する。珍しく武蔵と意見が合った」
真琴はそう言うと、少しそわそわしながら続けた。
「それで……その……データというのは……その……カヲルさんの……彼氏か何かなのか?」
真琴は真っ直ぐな瞳をカヲルに向けた。カヲルは真琴の黒く美しい瞳に吸い込まれそうになり、どきっとした。
「いいえ。ただのネット友達ですわ。会った事もないのですが、良くしていただきましたの」
そうカヲルが言うと、真琴と烈と武蔵がほっとした表情をした。
「そうか。うむ、そうか」
そう言いながら、真琴はどうしてそれ程、データの事が気になるのか、自分の心が不思議に思えた。
斎藤絵美はバイト先であるメイド喫茶アリスを出ると、大通りに停めてある白いレクサスに乗った。
「お帰りなさいませ、絵美様」
運転席には体格の良い三十歳程の青年が、白い背広と白い帽子と白い手袋をし、座っていた。レクサスの座席にはスヌーピーがプリントしてあり、所々にスヌーピーのぬいぐるみが置いてある。レクサス・スヌーピーバージョンであった。
「お待たせ。家まで飛ばしてくれる? 急ぎの用なの」
「かしこまりました」
絵美は後部座席にセットしてあるパソコンを立ち上げた。バベルシステムサーバーにアクセスし、土方七海を検索した。
――『スロット吉宗バベルバージョン』遊戯中。バベルへの本日のイン五百三十二万円、アウト、五百五万、差額マイナス二十七万か。前に七海様の台を遠隔操作して出るようにしたら五日でばれてこっぴどく怒られたんだよな。あーもう、手出しが出来ないのが、こんなにもどかしいなんて。
ふぅっと溜息を吐くと、絵美はバベルシステムサーバーからログアウトし、パソコンを閉じた。
――車の中ぐらい、休まなきゃ。
絵美は目を閉じて、ショールを膝に掛けた。絵美の脳裏に幼い香の顔が浮かんだ。
絵美がまだ四歳だった頃、土方七海の家庭は幸せに包まれていた。土方建設の部長として働く七海、アメリカ軍の基地で軍人として働く香の実父・ハワード。一歳になったばかりの香は土方家の特殊能力を発症させた。それは源を喜ばせ、同時に土方一族を震撼させた。十歳になっていた菊二郎は小さな香を溺愛し、二重の柵で覆われた香のベビーベッドに行っては、子守唄を歌っていた。
暖かい日差しが七海の家庭を包んでいた。メイドと数人の大男が香のベビーシッターとして控えていた。絵美はパソコンをいじりながら、菊二郎と一緒に子守唄を歌っていた。
そんな幸せの絶頂にいた七海一家にある日、不幸が訪れた。
「七海、本国勤務が決まった」
広い子供部屋に入ってきたハワードは、香を見つめる七海にそう言った。絵美はその時の空気を忘れられない。冷たさと寂しさが混ざった、そんな空気。七海は立ち上がり、ハワードの前に立った。金色の髪の青年将校と、マーク・ジェイコブスの白いロング丈のゆったりとしたワンピースを着た七海は、映画のワンシーンに出てきそうな美男美女だった。七海はじっとハワードの青い瞳を見つめていた。
「……そう」
「七海……」
ハワードは七海をぎゅっと抱き締めた。強い強い抱擁。絵美と菊二郎は二人をじっと見つめていた。
「七海。私と共に、アメリカに来てくれ」
七海はハワードに力強く抱かれながら、首を振った。
「……ダメ。私は土方七海ですもの。出張する事は出来る。でも外国に行く事は出来ないわ。貴方は私のために、日本に残ってはくれないのね」
七海は両手でハワードの頬を優しく包んだ。
「七海」
「家を捨てて。土方の家に入って、ハワード」
「七海……七海……愛してるんだ」
ハワードは七海を抱きながら、首を振った。
「……じゃあ、お別れね」
「七海……!」
七海とハワードは熱くキスをした。強く、激しくキスをした。二人をじっと見る絵美を、菊二郎が後ろから目隠しした。絵美の耳には、あっ、とか、おぅ、という卑猥な声が聞こえてきた。
「ハワード、愛しているわ」
「七海、私もだ。お前以外に私の妻はいない」
絵美はドキドキしながら、真っ暗な中で二人のやり取りを聞いていた。
「出発はいつ?」
「一か月後だ」
「そう。アメリカに行ったらお義父様、お義母様によろしくお伝えくださいね」
「……七海!」
絵美の目を押さえている菊二郎の手がふるふると震えていた。
――いつもしずかでおやさしいきくじろうぼっちゃまが、つよいいかりをおさえている。
絵美は暗闇の中で必死に考えた。どうしたらハワードがアメリカに行かないですむようになるのかと。怒りに震える菊二郎の手が、絵美は忘れられなかった。
次の日。
菊二郎と絵美はいつも通り、子供部屋で遊んでいた。菊二郎は二台のテレビを点け、早口で話すアナウンサーの実況中継を聞いていた。
「絵美、テレビを見てごらんよ。アメリカで起こった旅客機乗っ取りテロのニュースばかりだ。お義父様がアメリカへ行くというのに、物騒だね」
「そうですね」
絵美はパソコンから目を離さなかった。カタカタと小さな四歳児の指がキーボードを叩く。
「……」
いつもなら一緒にテレビを見る絵美が、何かに夢中になっている。菊二郎は絵美の後ろにそっと近付き、パソコンの画面を覗いた。
絵美のパソコンにはいくつかのファイルが開いていた。なにやら飛行機の図面のようなものと、何かのプログラミングがいくつか、そして端には、飛行機ハイジャックを中継するテレビ番組が小さく映し出されていた。
『リモートコントロールによってハイジャックされた旅客機三十機の目的地の予測が発表されました! なんと、ペンタゴン、ペンタゴンです! 未だテログループからの犯行声明はないとホワイトハウスのスポークスマンは語っています! 各国の武装グループが、今回の旅客機ハイジャックに次々と非難声明を出しております! 一体犯人の目的はなんなのでしょうか! 最初の飛行機がペンタゴンに突入するまであと十分だと発表されました。職員の避難が間に合いますでしょうか!』
菊二郎の後ろのテレビから、アナウンサーの絶叫が聞こえてきた。絵美はまるで何も聞こえないかのように冷静な表情のまま、カタカタと小さな指でキーボードを叩き続けていた。菊二郎の背中に冷たい汗が流れた。
「絵美、駄目だ。それはやっちゃいけない」
絵美の小さな背中がびくっと震えた。菊二郎がそっと絵美の小さな肩に両手を乗せた。
「絵美、これは命令だ。それはやっちゃいけない」
今まで冷めた表情の絵美が、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「でも……でもきくじろうぼっちゃま……ハワードさまが……ハワードさまがアメリカにいっちゃう……」
絵美は泣きながらパソコンから手を離した。
「うん。僕も、お母様も悲しいよ。でも絵美。それはやっちゃいけない。早く止めなさい。人が沢山死んでしまう。僕の命令が聞けないの?」
絵美は泣きながら、首を振った。
「もうしわけありません、きくじろうぼっちゃま」
絵美は泣きながら素早くキーボードを叩いた。
「終わったらパソコンを閉じなさい。一緒にテレビを観よう」
絵美は泣きながら、頷いた。
『速報が入りました! 旅客機が解放された模様です! リモートコントロールが解除されました!』
菊二郎はほっとしながら絵美を後ろから抱き締めた。絵美はぽろぽろと涙を流して、シャットダウンするパソコンの画面を見続けた。
「ハワードさまが……ハワードさまがいっちゃう……」
「うん……うん……悲しいね……でも僕らで頑張ろう、絵美。僕らで七海お母様を支えて行こう……そしてまだ小さい香を守っていこう」
「きくじろうぼっちゃま……」
絵美はパソコンの画面が真っ黒になると、うわぁぁんと泣き出した。乳母が慌てて子供部屋へと入ってきた。菊二郎は右手を挙げ、乳母に僕がやるからと合図をした。乳母が見守る中、菊二郎はずっと絵美を後ろから抱き続けた。
――あの時、菊二郎様にお止め頂かなかったら、オレは大量殺人犯になっているところだった。人が死ぬとか、死なないとか、あの時のオレにはまだ理解出来ていなかった。ただ大型の物体をペンタゴンにぶつけ、機能を停止すればハワード様がアメリカに行かないで済むのではないか。そんな風に考える甘い子供だった。
菊二郎様はあれから、旅客機から降りる乗客一人ひとりに名前を付け、彼らの物語を作ってオレに話してくれた。最初に降りた子供は明日が誕生日で、長い間別れていたお父さんに会いに行くために飛行機に乗っていた。お母さんの手を取り、恐怖に震えるお母さんを守っていた。次に降りた老夫婦は手術をして、成功し、これから田舎に帰宅するところだった。菊二郎様は降りてくる乗客全員の物語をオレに語ってくれた。オレはあの時初めて、ネットでカウントされる人口統計ってやつの後ろには、一人ひとりの人生があるんだって事を知ったんだ。
絵美は目を開けた。白いレクサスはゆっくりと木でできた大きな門の間を走っていた。
斎藤絵美の家は土方本家の敷地内にあった。斎藤家と土方家の付き合いは長く、江戸初期から主従関係だったようだ。伝説では土方の男っぷりに惚れた斎藤は杯を交わし、兄弟分になったという。しかし彼らは次第に愛し合うようになった。斎藤の祖先はその時、自分は妻には成れないが、私の一族は子々孫々土方を守っていくと誓ったという。土方と斎藤は互いに別の相手と結婚し、妻を持った。
それから数百年、斎藤は祖先の誓いを守り、土方へと仕えてきた。そして土方は斎藤の直系に屋敷内の別棟を与え、組長補佐として迎えてきたのだ。絵美の父・斎藤守は源の第一秘書であった。土方の背中を二十四時間守るのは、斎藤家の役目だった。
斎藤守の長子・絵美は、母親に似て、幼少の頃から天才性を発揮していた。守がパソコンを与えると、みるみるうちに世界中の知識を吸収し始めた。
絵美は小さい頃から七海のお気に入りだった。七海は源に「この子はうちにくださいね」と言っていた。斎藤家の長子を貰うというのは土方家を継ぐという意思表示でもあった。七海を可愛がっていた六人の兄姉達は、それを受け入れ、誰もが七海が土方を継ぐのだと思っていた。七海にはそれだけの才能も、人並み外れたカリスマ性も備わっていた。女王の風格。その言葉は七海のためにある言葉だった。
絵美は二歳になると、土方七海宅の子供部屋で菊二郎と一緒に育てられた。大きな広い子供部屋には白い小さなベビーベッドが用意されていた。後に香と名付けられる少女の為に用意されたベビーベッドだった(しかしその白く可憐なベッドは、一歳の頃、土方の特殊能力『神鬼』を開花させた香によって粉々に破壊された)。絵美は七海の大きなお腹を触りながら、まだか、まだかとベビーベッドの主が生まれてくるのを待ちわびていた。
「絵美様、到着いたしました」
「ありがとう」
家政婦達に傅かれながら、絵美はコンピュータールームへと向かった。斎藤家の一階にある絵美の部屋の奥には、何重もの鉄の壁に覆われた巨大なコンピュータールームがあった。絵美はそのコンピュータールームに入り鍵を掛けた。
「さっ、兎探しをやりますか」
低い少年のような声を出した絵美は、目をきらきらと輝かせ、伝説のクラッカー・データへと変身した。今まで真っ直ぐだった背筋はやや曲がり、猫背になった。ハの字に開いたキーボードをデータは目に見えぬ速さで打ち始めた。
「山崎裕紀の写真をサーチ。関東に絞って業務用と家庭用カメラから探せ」
パソコンはキーボード入力と音声入力を受け付けているようだった。
目は山崎裕紀の個人カードの買い物履歴を追っていた。そこから出てくる山崎の行動パターンをデータは読み取っていた。ジュンク堂、リブロ、芳林堂、まんがの森、とらのあな、アニメイト、K-BOOKS、まんだらけ、ビックカメラ、さくらや、ヤマダ……山崎裕紀の買い物記録は書籍や漫画や同人誌やゲームを買うのが大半であった。
「おたくか。なら分かりやすいな。都内の漫画喫茶の防犯カメラデータから、山崎裕紀を探せ」
防犯カメラの検索をしながら、データは同じくハッキングしてくる者の追跡をしていた。
――これは誰だろう。
データはかたかたとキーボードを叩いた。追いかけては消え、また追いかけては消える不審者。新しいファイアーウォールを都内の店舗のカメラに仕掛けては、その者が破っていく。そのイタチごっこをデータは繰り返していた。
――しつこいな。だがまだこいつは山崎裕紀の情報を掴んでいないはずだ。いや、違うな。事件が起こった時間と、香様がオレに言った時間との間にタイムラグがある。その間に調べようと思えば調べられるか。しかし漫画喫茶だという情報はまだ分からないようだ。あちらこちらのカメラのファイアーウォールにアタックしている。だがこれがフェイクというのも考えられるな。
データは深い溜息を吐いた。
――早く保護させてくれ。山崎裕紀。あんな……。
データは香の顔を思い出し、胸と股へと手を置いた。右手で股間を弄り、左手で胸をぎゅっと掴み、いやらしく揉んだ。
――あんな怒りに燃えた香様に命令されたのは初めてだ。データを……’オレ‘を使ってくれた。初めて俺を使ってくれた。
『データを使う』。それは香が土方の力を使ったという事だった。土方を支える斎藤家の長子である絵美。絵美という斎藤直系の力を使うのは、いや、使えるのは、土方の首領だけであった。絵美はメイドとしてメイド喫茶アリスをサポートしてきた。だがそれは絵美の個人的な忠誠心で働いていたに過ぎない。『斎藤家』を真に使うというのは、『データを使う』ことに他ならなかった。
データの脳裏に怒りに身を包んだカヲルの姿が浮かんだ。菊二郎の優しさとは違う冷酷さ。目が覚めるような冷静さ。恐ろしいぐらいに静かに光る青い瞳。
――濡れたぜ……やっぱり香様は違う! オレのご主人様だ……!
瞳を恍惚とさせながら、データはオナニーをした。世界最強の指は今、彼女自身の大切な場所を弄び、絶頂へと向かっていた。
「ははっ、はははははははっ!」
音声入力システムはデータの笑い声を拾い、五十枚にも及ぶモニター全てに『ははは』という文字がいくつものフォントで映し出された。
データは濡れた右手でデリートキーをたんっと押した。
「香様に盾突く者全てを消してやるよ」
データがそう言った瞬間、正面のモニターに漫画喫茶の受付を済ます山崎裕紀が映し出された。
「データから情報が来ました。北口のマンガ広場です。行きましょう」
カヲルがそう言うと、真琴と烈と武蔵が頷き、立ち上がった。
「私も行こう」
菊二郎がそう言って立ち上がると、カヲルは菊二郎の手を取って言った。
「バトラー、これはわたくしと真琴さんにやらせてください。わたくし達が決着を付けなければならない問題なのです」
「カヲル……」
菊次郎は心配そうな、少し泣きそうな顔をした。
「お前がいなくなったら、私は……!」
「わたくしは帰ってきます。必ず帰ってきます。バトラー」
カヲルは今にも泣き出しそうな菊二郎にそう言った。
菊二郎はカヲルの手の甲に、そっとキスをした。
「無事を祈っているよ」
「行ってきます」
そう言って、カヲルはアリスの扉を開けた。
四人は暫く黙々と歩いていた。カヲルは、何か牽制し合うような空気を三人から感じ、黙っていた。一番最初に口を開いたのは烈だった。
「あのー、カヲルさん。バトラーってカヲルさんの恋人ですか?」
カヲルは驚き、また心の中で、今まで神妙な顔付きをしていたのはそれが原因かよ! と烈に突っ込みを入れながら、笑顔で答えた。
「いいえ。良くしていただいておりますが、バトラーはただの雇用者ですわ」
ちょっとシスコンで過保護だけど、とカヲルは心の中で付け加えた。
カヲルがそう言うと、真琴と武蔵がほぉーっと安堵した。
「な、なんですか、三人共! まさか今までずっと真面目な顔をして黙っていらしたのは、その事が原因ですの?」
「そりゃそうさカヲルさん。君はボクの女神だからね。例え相手がバトラーであろうと、ボクは奪うよ」
武蔵はふっと笑いながら言った。
「まぁ……その……、カヲルさんに恋人がいるのかとか、そういうのはちょっと気になるかな」
真琴が頭を掻きながら、恥ずかしそうに言った。
――真琴にそう言って貰えるのは、ちょっと嬉しいかも。
カヲルは少し恥じらって俯いた。
「なんていうかさー、マスターはほら、大人の魅力があるし、ホスト激戦区と呼ばれる池袋の中でも、小さいメイド喫茶のマスターに納まっているのが不思議なぐらいカッコイイしさ。あんなのに迫られたら、その辺の女の子だったら逆上せあがっちゃうだろうなーと思ってさ。メイド喫茶アリスはマスター目当てで来る女性客も多いしさー」
烈がそう言うと、真琴がうんうんと頷いた。
「うむ、菊二郎さんはあれで鍛えられているしな」
「そうそう、バトラーは結構強そうだとボクも思うよ。剣道の試合とかで、真琴はバトラーの名前を聞いた事があるか?」
「武蔵もそう思ったか。実は昔、調べてみたのだが、土方菊二郎という名前は出てこなかった。どの流派でもだ」
「一般で習いに行ったのかねぇ。でもあれだけ素質がありそうだと、試合に出ないかと声がかかるよなぁ。東京に居て、あれだけ鍛えられていて、ボクらが知らないというのもおかしな話だ。日本国内のほとんどの猛者はリストアップされていると思うんだけどネ」
「うちは両親が調べてきたデータがあるので、海外の猛者もリストアップ済みだ」
「近藤道場は凄いな。今度、ボクんところも取り入れてみよう」
二人の会話を聞きながら、そりゃあお兄様が鍛えているのは、土方本家にある道場だから知っているわけがない、とカヲル――香は思った。
表と裏。こういう時、香は嫌でもそれを感じてしまう。兄は確かに土方の道場で腕を磨き、鍛えてきた。だがスポーツの段位などを取りに行く事は一度も無かった。体を鍛えるのは自分の身を守る事が目的だった。それだけ土方の者は命を狙われる事が多かった。土方の特殊能力を引き継ぎ、力の調整をするために道場に通う香と、自分の身と母と妹を守ろうとして鍛える菊二郎とでは、目的が違った。だが目的は違えど、習う技は大抵が同じものだった。しかしその習得技には、スポーツのような寸止めルールは無かった。襲ってきた相手を殺すための手段でしかないのだ。
三人と自分の間に、深い、深い谷があるような錯覚を香は覚えた。
――白いメイド服に包まれていれば、私と……真琴の間の溝が埋まるのかしら。
カヲルは悲しそうに微笑み、俯いた。
「うわ!」
「きゃっ!」
一番後ろを歩いていた烈が、ランドセルを背負った子供とぶつかった。
「ごめんなさい」
小学生は高く澄んだ愛らしい声で、烈に謝罪した。
「いいって。気をつけろよ」
烈がそう言うと、子供はこくんと頷き、走り去った。その後ろ姿を見ながら、カヲルはどこかで見たような、と思った。
「いやー、今の子可愛いわ。カヲルさん、俺とああいう子を作って……ぐほぉ!」
烈が言い終わる前に、真琴から頬にパンチが、武蔵から重いボディーブローが、烈の体に叩き込まれた。
「カヲルさんに失礼な事を言うな」
「まったくだ」
真琴と武蔵は冷やかな視線を烈に向けた。
「ちょっ……お前ら……本気過ぎ……」
烈はぼろぼろの体を引きずりながら、三人の跡を付いて行った。
烈とぶつかった小学生は、東口にある中池袋公園のぶらんこに乗っていた。
キィ、キィ、とぶらんこの鎖が軋んだ音をたてた。
小学生は鞄から、ニンテンドーDSフューチャーを取り出した。もう夜の八時を回っていたが、中池袋公園は明るいライトで照らしだされ、親子連れや子供達がまだ遊んでいた。歓楽街池袋では未成年者の多くはGPSを持ち、親と警察の監視下に置かれていた。深夜十二時を回ると保護者がいない未成年者は、ボランティアグループ豊島区未成年者保護機構の未成年者保護活動、通称『子供狩り』にあう。狩られた子供は親が迎えに来るまで区営の児童館へと預けられる。
ぶらんこの上でゲームを始める子供の姿は、公園の風景に溶け込んでいた。子供はイヤホンマイクを耳に掛けた。ゲーム中にチャットをしているようにしか見えない。
「小さな小さな子ネズミさん、あなたは一体どこにいるの」
DSの画面には池袋の地図と、そこを移動する小さなネズミが映し出されていた。そのようなソフトはDSで出ていない。明らかに改造ソフトであった。子供が素早く画面をタッチすると、幾つものソフトが立ち上がった。DS本体自体が大幅に改造されて、小型パソコンと化していた。「違法」や「改造」という言葉からかけ離れていそうな大人しそうな子供だが、その手に持っている物は明らかに違法玩具だった。DSに映った小さなネズミは移動しながら北口へと向かっていた。
「グループA~Cは池袋北口に向かえ。ネズミを駆除せよ」
子供はゲームの駒に命令するかのように、微笑みながらそう言った。画面に散らばった小さな兵隊が、北口へと向かい始めた。
ふぅっと溜息を吐きながら、子供は空を見上げた。バベルが高く聳え立ち、空を二つに分ける。
「どうして空はこんなに美しいのに、人はそれを分けようとするのかしら」
子供は遠い昔の、胎児の頃を思い出した。
さくら さくら
野山も里も
見わたす限り
かすみか雲か
朝日ににおう
さくら さくら
花ざかり
子供の『母親』は、子供が腹の中にいる時、いつもその歌を歌ってくれていた。子供は母親の柔らかい声を今でも覚えている。顔も知らない、優しかった『母親』。
生まれた後、子供は少し大きめの保育器の中で育てられた。保育器の中にはいつも映像や音楽が流れていた。だがさくらを歌ってくれた『母親』はそこにはいなかった。
一歳になった頃、子供は裸にされ、ステージに用意されたガラスケースが付いたベッドの上に座らされた。ステージの下にはいくつものテーブルがあり、仮面を被った者が百名程いた。子供にとって初めて会った保育係以外の人間だった。
「これが本日の目玉。レアヒューマンです」
司会者は子供の精子と卵子を提供した者達の略歴を語った。それは子供にとってどうでもよい事だった。ただ、子供はあのメロディーを歌ってくれた者が誰なのか知りたかった。
子供の値段はだんだんつり上げられ、最終的に一億五千万円で取引された。子供を購入したのは日本人の、IT会社社長夫婦だった。
二人は優しく子供を育てた。保育器と保育係しか知らなかった子供は、両親を持ち、国籍が与えられ、本物の空の下で暮らすようになった。子供は二人の知識を吸収し、成長した。子供はパソコンに詳しくなり、両親のパソコンのセキュリティーロックを外し、自分の出生を調べた。そこで初めて子供は、『無国籍な子供達』の存在を知った。
子供が心の中で『母親』と呼んできた人は、子供を生むためだけに連れて来られた多額の借金がある女性だった。彼女は十五人の子供を産まされ、最後にはインフルエンザと出産が重なり、死亡していた。『母親』は醜い女性だった。体中にタバコによって付けられた火傷の痕があり、左目が失明していた。子供は『母親』の人生を調べた。『母親』は日本国に国籍を持って生まれていた。正規の日本国民として登録されていた。だが幼い頃、両親にキッズポルノ業者に売られ、その後、ソープランドに売られていた。『母親』は男と結婚した。しかしその男と一緒になった頃から多額の借金を作るようになり、たった一年で『無国籍な子供達』に関係するシンジケートに売られた。『母親』はそれから子供を産む機械として生かされ、レアヒューマンと呼ばれる赤ん坊――子供自身を産んだ。
『母親』の人生は最悪だったかもしれない。だがレアヒューマンと呼ばれた子供は『母親』から愛を受け取った。柔らかい母体と、優しい歌。だが子供が『母親』と会えるだけの、彼女を買えるだけの、技術と資産を持った時は既に遅く、『母親』は冷たいコンクリートの中で空も見ずに亡くなっていた。
子供が八歳の頃、育ての親達は交通事故に巻き込まれ他界した。これが初めて、子供が自分で手配して犯した殺人だった。子供は育ての親に愛されて育っていた。何不自由なく、優しく、そして穏やかに。子供もそれに応えて、IT社長の子供として大人しく、そして優雅に振舞っていた。愛し、愛され、この世の春を子供は謳歌していた。誰の目にもそう見えた。
だが子供は育ての親を事故死させた。
――空はこんなに青いのに、私は世界を愛せない。
DSの画面に映るネズミが、北池袋にあるビルの中へと入っていった。
子供は自分の駒を丸で囲み、丸とビルを線で結んだ。兵隊は次々とビルを包囲し、その一部はビルの中へと突入し始めた。
池袋北口のマンガ広場は、駅の出口から少し離れた場所にあった。昔、北口ウイロード出口近くにあったビルはバベルに吸収され、マンガ広場もバベルの中に店を構えるようになった。移転と共に漫画喫茶の価格も上がり、品揃えも設備も良くなった。だがやはり安価なマンガ喫茶を求める声は多く、バベルの外に再びマンガ広場ネオ北口店がオープンしたのだ。
『カヲル様、マンガ広場ネオ北口店には兵隊を向かわせております。外の警備はおまかせを』
「ありがとう」
腕時計に向かって話すカヲルを見ながら、真琴が質問した。
「データとやらと打ち合わせか?」
「ええ。お友達を回してくださるそうです」
お友達、と言ってから、厳つい兄さん方が来たらどうしよう、とカヲルは思った。
「急ごう」
そう言うと、真琴はカヲルの手を取り、素早く歩いた。
――うわー、真琴と手を繋いでる。
カヲルは自分の頬が熱くなるのを感じた。学校ではお互い、腕を捕まえて歩く事はあったが、手を握る事はあまりなかった。真琴の手と、カヲルの手は、今、ぎゅっと結ばれていた。
北口の雑居ビル街に、マンガ広場ネオ北口店はあった。池袋の中でも比較的空いている店で、確かに隠れ家として絶好の場所であった。
「ここの五階ね。皆さん、降りたらエレベーターは封鎖します。帰りは階段で下りましょう。階段はエレベーターのすぐ横です。会計もそこですから、わたくしと真琴がそこを守ります。烈様と武蔵様は山崎裕紀の身柄確保をお願いします」
「真琴?」
武蔵が眉毛を吊り上げ、カヲルと真琴を見た。
「あっ、あの……真琴様ですわ。お客様にご無礼を」
しまったと思い俯くカヲルに、真琴は優しく、いいよ、真琴で、と言った。
「いかん、いかんなぁ、真琴君。そこで抜けがけかい? こういう非常時こそ抜けがけはいかんよ。カヲルさん、ボクの事も武蔵、とお呼びください」
武蔵がにっこりと輝くような微笑みをカヲルに向けた。カヲルは真っ赤になりながら、もう、武蔵様ったら、と言った。
「言い間違えただけですわ。それよりご自分の安全にお気を付けてくださいませ。入口はわたくしと真琴様で押さえますが、既に客として麻薬密売組織の者がいるかもしれません」
「心配してくれるのかい? ハニー。身柄確保は任せてくれ」
武蔵はカヲルの肩を抱きながら、そう言った。
「山崎はA- 51にいます。よろしくお願いしますね」
カヲルは武蔵の腕の中からするりと抜け出し、そう言った。
四人はエレベーターで五階に昇った。烈と武蔵はチェックインし、A- 51へと向かった。
カヲルと真琴はエレベーターホールの前に立ち、エレベーターが上がってくるのを待った。
「どちらから来るだろう」
「両方からだと思います。二ヶ所から殺気が上がってきますわ。ビルの周りも包囲されたかもしれません。もう場所がばれていますわね。真琴様、警察へ連絡をしてください」
「分かった」
真琴は携帯電話で剣一に連絡した。
電話で事情を説明しながら、真琴はちらりとカヲルを見た。これから襲われる可能性があるのに、彼女はなんて落ち着いているのだろうと真琴は思った。
一方、烈と武蔵は山崎裕紀がいると思われる個室、A- 51の前に立っていた。
「俺が説得するよ」
烈はそう言うと、コンコンっと扉を軽く叩いた。
「誰?」
中の女性が緊張した声で返答を寄こす。
「俺。近藤烈だけど。君、山崎裕紀ちゃん?」
「烈様? な、なんでこんなところに……いるんですか?」
山崎は震える声でそう言った。
「あん時、俺も傍に居たんだよ。たまたまこの喫茶店の店長が俺の知り合いでさ。君の事を助けてあげたいって思って、ここに来たんだ」
烈が店長の知り合いだというのは嘘であったが、山崎はそのまま烈の話を信じたようだった。
「烈様……」
扉の向こうから嗚咽が漏れた。烈と武蔵は気まずい顔をしてお互いを見た。
「烈様……なんで今頃いらしたんですか? 私……私、翼が、翼が、あんなになっちゃって……もうどうしたらいいのか分からなくて……」
「うん……そうだよね。君は悪くない」
烈は頷いた。
「翼ちゃんは病院で保護されている。これから然るべき治療を受けて回復すると思う。きっと元に戻って君の所に帰ってくるよ。それより裕紀ちゃん、俺は君が心配なんだ。助けてあげられると思う」
「烈様……でも! でも! 私!」
「みんなが君の事を待っているよ」
烈はコンっと優しく扉を叩いた。
漫画喫茶入口のエレベーターホール前。
カヲルと真琴はじっと階数表示を見つめていた。光が左から右へと移る。1、2、3、4、5。
チンっという軽い音と共に、エレベーターの扉が開いた。
鞄を持った学生風の男達、スーツを着たビジネスマン、長髪のオタク男性、それにTシャツを着た体格の良い男が降りてきた。
彼らはとくに銃を向けるわけでも、ナイフを向けるわけでもなかった。だがカヲルは五人に襲いかかった。
真琴の視界からカヲルが消えそうになり、真琴は慌ててカヲルを目で追った。カヲルは体を沈め、蹴りを放った。骨が折れる不気味な音と、悲鳴が店内に木霊した。
カヲルはオタク男性の首根っこを掴むと、エレベーターから即座に引っ張り出し、後方へと投げ飛ばした。
「真琴、彼は一般人です!」
「ああ!」
それは真琴も分かっていた。エレベーターの中に渦巻く殺気。それに気付かず乗るオタク男性。殺気が感じ取れないオタクは、やはりこういう時も危険の只中にいた。だが彼らのこの「空気が読めない」体質が、オタク産業と風俗を混ぜ、池袋を一大歓楽街へと成長させた原動力でもあった。
――「真琴」。そう私を呼ぶのか?
カヲルがそう自分を呼ぶ声に、真琴は懐かしさを感じていた。いつも聞くあの声。いつも傍にいる親友。
何故、この金髪の少女と、あの眼鏡を掛けた真面目な親友が重なるのだろうと真琴は思った。真面目な親友が、腿がちらりと覗くメイド服を着るわけがない。男達に跪いて、媚を売りながら飲み物を運ぶ訳がない。
だが自分を呼ぶその声に、真琴は覚えがあった。
カヲルはエレベーターホールで華麗に舞っていた。前三人の足を折った。
一番後ろの大男が三人を掻き分け前に出ようとした時、真琴がすっとカヲルの前に立ち、手にしていた木刀を彼の額へと下ろした。大男は意識を失い、後へと倒れた。
カヲルはひょいひょいと男達の体をエレベーターに乗せ、一階を押し、扉を閉めた。エレベーターが動くとカヲルはすっと片足で立った。カヲルは黒く華奢な造りのように見える革靴で、エレベーターの鉄扉がめくれ上がる程蹴り飛ばした。
「カヲルさん……」
戦略的にありだというのは真琴にも分かった。エレベーターから敵が上がってくるのなら、エレベーターを破壊するのが一番であろう。だがエレベーターの扉は少女が蹴り飛ばしたぐらいで壊れるようには出来ていないはずだ。それなのにエレベーターの鉄板は柔らかい飴のようにひしゃげていた。
カヲルを見ながら一体この細い足のどこから力が湧いているのか、真琴は不思議でならなかった。
「真琴! 階段を上ってくる者達をお願いします。わたくしは烈様を見てきますわ」
個室に向かおうとするカヲルに、なんなんですか、貴女達は! と言いながら女性店員が食って掛ってきた。カヲルがどきなさいと言うと、女性店員は青ざめ、道を開けた。
一方、A- 51と書かれた個室の前では、烈が裕紀の説得を続けていた。
「うん、うん、裕紀ちゃん、分かるよ。でも、今は君の身が心配なんだ。ここにいても危ないから、安全な所に避難しよう」
そう言って説得する烈に、カッ、カッと靴を鳴らしながら歩いてきたカヲルが、どきなさい、と言った。
「烈様、武蔵様、後にお下がりください」
「カヲルさん」
烈がそう言うと、山崎が興奮気味に言った。
「何? 香って、土方香? あの子がここに来ているの?」
「いや、違う……」
と、烈が言いかけた時、カヲルは白いハンカチを口に当て、小さなボールみたいな物を山崎がいる個室に投げ入れた。次の瞬間、個室は白い煙に包まれる。扉の隙間から怪しい煙がもやっと漏れてきた。
カヲルは十秒数えると、扉をがこんっと蹴り飛ばした。外れた扉を椅子の横に立て掛け、パソコンにもたれ掛かって眠っている山崎を引きずり出した。
「山崎裕紀確保」
カヲルは山崎の体を武蔵に渡した。
「行きますよ」
烈と武蔵はこくんっと頷いた。
武蔵は小さな声で烈に言った。
「あの武器どこの?」
「ガワはロシア製に似ているけど、微妙に違う。手造りっぽい」
「カヲルさんの趣味かね」
「うーん、データからのプレゼントって考えたほうがいいんじゃないかな。カヲルさんから薬品の香りがした事はないし」
「そうだよねぇ」
そう言いながら、武蔵は唇をぺろりと嘗めた。
「ますます惚れたよ。好い女だ」
「そうだな」
烈はふと、山崎がカヲルと土方香を間違えたのを思い出し、くすっと笑った。眼鏡を掛け、髪の毛をいつも太い三つ編みに纏め、ファッションに無頓着な女・土方香。兄のお古の男子学生服を着て通学する不可思議な女。流れるような金色の髪、目が覚めるような青い瞳を持つカヲルを、よりによって土方香と間違えるなんて。そう、あるわけがない。あるわけがないのだ。
烈はくすくすと笑いながら、カヲルの跡を付いて行った。
子供は悩んでいた。いつもなら楽にアクセス出来る街の監視カメラのセキュリティーシステムが強固になっていた。何度解除しても新しいセキュリティーシステムが立ち上がり、子供の行く手を阻んだ。
子供は焦りを感じた。生まれて初めて感じる「焦り」という感情。確かに池袋という街は世界中のどの街よりもセキュリティーが高かった。ちょっとプログラムを齧っただけの者では、街の監視カメラにアクセス出来ないようになっている。他の街のように、気付かないうちに監視カメラをハッキングされ、それがネットで放映されている、といった事件は池袋ではありえなかった。
だが、それでも今まで子供は池袋の街の監視カメラを覗いてきた。歓楽街池袋を見つめてきた。この街は世界中のどの都市よりもエキサイティングだった。巨大な利権は大人達の手で細かく管理され、分配されていた。その一方で、十八歳以下の者はまるで聖者のように保護されていた。
子供にとってそれは気に入らない事だった。年齢で線を引き、権利を奪うとは何事だろうか。子供は両親を殺害してからの不自由な生活を思い返した。日本国では、特にこの池袋では、未成年者が保護者無しのまま生活する事など出来なかった。子供の両親が死んだ時、利権を求めて親戚の者が出しゃばってきたがそれを全て断り、『無国籍な子供達』出身の弁護士に後見人になってくれるよう依頼した。
子供が未成年者に麻薬を売ったのも「未成年者の権利の拡大」を求めて行なった事だった。だが池袋の麻薬販売の防御網は厚く、何人もの兵隊が行方不明になった。
しかし今回の事件は違った。「タク」と名付けた『無国籍な子供達』出身の兵隊は、麻薬を売った未成年者と同じ学校に通う少女に刺された。これは子供にとって予想外の出来事だった。麻薬を買うのも、麻薬に溺れるのも、個人の権利だと子供は思っていた。そしてその権利を未成年者に広めようと始めた事業だった。これは未成年者にとって喜ばしい事だろうと子供は思っていた。それなのに何故、未成年者が、それも麻薬に溺れている本人ではなく、その知り合いが「タク」を殺したのか。子供には理解が出来なかった。
――まただ。またカメラにアクセス出来ない。
子供はネットの海をさ迷っている時、いつも何か、見えない手のようなモノに遮られる事があった。だがまさか、この大事なこの瞬間に行く手を阻まれるとは思いもしなかった。街のカメラが見えない。これは子供にとって目を潰されたようなものだった。
敵の姿が見えない、霧がかかった戦場で、持ち駒の兵隊達は次々と活動を停止していった。
マンガ広場の入口に戻ったカヲルは、真琴が怪我をしていないのを確認し、ほっとした。
「真琴様、お待たせしました」
「うむ」
烈は、涼しい顔をして非常階段の手摺にもたれ掛かっている真琴に、大丈夫か、と声を掛けた。そしてちらっと下り階段を見た。
「うわぁ、アネキ。なんだこれ」
下り階段には二十人程の男女が倒れ、重なり合っていた。胸元から銃が見えている事から、どうも襲撃に来たらしいという事だけは分かった。
「そやつらか。試合を仕掛けてきたのでな。返り討ちにした」
「いや……アネキ……こいつら恐らく試合しに来たんじゃないと思うんだ……」
「そうなのか? だが皆、武器を携帯していたぞ?」
それは殺しに来たからだよ、と烈は思ったが、口には出さなかった。
「早めにビルを出ましょう。相手はロケットランチャーでビルを破壊してくるかもしれません」
カヲルがそう言うと、三人はこくんと頷いた。
武蔵は受付カウンターの後ろに隠れているスタッフに、A- 51の会計だ、と言って一万円札を渡した。
スタッフはがたがた震えながら、首を何度も縦に振った。
――武蔵さんってば、あんなに払って。後で山崎から取り立てなくっちゃ。でも現金を持ち歩くのはいいかも。
そしてカヲルは家にある豚さん貯金箱の中に入っている二百五十六円の事を思い出した。それがカヲルが持っている貯金全額であった。
――はぁ、これではマンガ喫茶代金を代わりに払う事は出来ないや。一万円札とか、もう二年はサイフに入れたことがないような気がする。
カヲルは階段に倒れている人達を端に動かし、細いチェーンで拘束しながら降りて行った。
バラバラバラというヘリコプターの音が聞こえ、四人は開いていた窓から空を見た。
「あれは、池袋組のヘリだ。事件を聞き付けて介入してきたな」
烈がそう言うと、カヲルは驚きながら振り返った。
「烈様、お詳しいのですね」
「ええ、ちょっとは。あのヘリを所有しているのは自衛隊と池袋組だけですから。それで服装が自衛隊じゃありませんからね。日本の組織がどのヘリを所有しているかぐらい、頭に入ってますよ」
「カヲルさん、こいつ、ミリオタなんですよ」
武蔵が烈の肩を抱いて笑った。烈は、ミリオタ言うな、軍事マニアと呼べ、と言いながら口を尖らせた。
「決算報告書とか、白書とか読めば見えてきますからね。ふっ、簡単な事ですよ、カヲルさん」
烈はちょっと自慢しつつ、髪の毛を掻きあげた。
――そこまで読んでいて、源お爺様に気が付かないなんて。お気楽な奴。
カヲルは前を見ながら、ふぅ、と小さく溜息を吐いた。
その時、銃声と共に、カキンという何かが金属に当たり跳ねる音がした。
「銃を使うなんて、反則だわ」
カヲルが心にも無い事を言った。
「そうですよね、カヲルさん、俺も反則だと思います」
烈がそう言うと、真琴がカヲルに言った。
「飛び道具は確かに狭い場所では有利だ。だが飛び道具に頼っている彼らは、銃が使えなくなると途端に弱くなる。簡単だ」
「真琴様ったら、その調子で突っ込んで行ったのですね。心配してしまいます」
そう言ってカヲルは近くで伸びている大男の胸を触った。
「きちんと防弾チョッキを付けていますわ。彼に盾となってもらいましょう」
カヲルは大男を襟を掴み、持ち上げた。
「待ちなさい、カヲルさん」
今にも大男を振り上げようとしていたカヲルを、真琴が止めた。
「私が行こう」
「そんな! 真琴! ……様を危ない目に合わせるなんて出来ません」
そう言うカヲルの手を、真琴はぎゅっと握った。
「私を信じて、後ろからついてきて。君のサポートが必要だ」
真琴はふっとカヲルに顔を近付けた。二人の少女の顔はあと数センチで重なり合う距離まで近寄った。
「は、はい」
カヲルは顔を真っ赤にして、真琴を見つめた。真琴は優しい笑みを浮かべたままこくんと頷き、カヲルの手から大男を受け取り、階段に寝かせた。
後ろで烈が小声で武蔵に言った。
「……すげぇ。アネキ、人を盾に使おうとする鬼神のようなカヲルさんを止めたぞ。っていうか、もしかしてアネキってたらしなのか?」
「烈、お前、双子のくせして知らなかったのか? あの天然たらしに私は何人の女を奪われた事か」
武蔵は溜息を漏らしながら、手をひらひらさせた。
真琴は木刀を正面に構え、ふぅーっと息を吐いた。
「行くぞ」
真琴は銃声が鳴り響く階下へと飛び降りた。
「はああああああああああっ!」
真琴の覇気のある叫び声が、狭い階段に木霊した。階下にいる銃を持った者達は、その声に震え上がり、引き金を引く指を止めた。
真琴はその瞬間を見逃さなかった。人々の間を走り抜け、その手に持つ銃を次々と叩き落として行った。そしてその後ろからぴったり付いてくるカヲルは、白いメイド服を靡かせながら、敵の腹へ、また首へと打撃を与え、気絶させていった。
「美しい。見事なコンビネーションだ。真琴はともかく、カヲルさんの無駄のない動きが素晴らしい。戦場に輝く黄金の髪と純白のメイド服。まさに現代に降臨した美の女神だ」
山崎を肩に乗せ、二人の跡を付いて行く武蔵は、その戦いぶりに讃辞を贈った。
「この状況で、武蔵は余裕だな」
烈が少し呆れながら武蔵を見た。
「そりゃあ、剣道なんて所詮殺し合いから生まれたスポーツだからネ。それにボクは鬼龍院道場の跡取りだよ。烈だって興奮してるンだろ? この戦場の空気に。あの美しい戦いの女神達の動きに。なぁ、近藤烈クン?」
武蔵がそう言って、烈の顔を覗き込むと、烈はぷいっと横を向いた。
「無理しちゃって」
武蔵はそう言うと、くすっと笑った。
「ビル制圧。あとは外ね」
カヲルはそう言って、階段の陰から外の様子を伺った。外から怒号と銃声が鳴り響いていた。
ファンファンファンとパトカーのサイレンが鳴り響いた。空からは何機ものヘリコプターの音が聞こえてきた。
「池袋組のヘリの音とは違うのが混ざってますね。マスコミかな」
襲撃者達を拘束しながら階段を降りて来た烈が、カヲルに言った。
「そうですね」
そう会話する二人に、真琴が言った。
「池袋組というのは敵の名前か?」
カヲルは一瞬、ほんの一瞬、瞳を潤ませた。
池袋組は敵か?
それは一般市民にとって、ありふれた感覚だった。一般市民である真琴が、暴力団組織が味方だと思う訳がなかった。
だが、カヲルに、いや香にとって、池袋組は大好きな祖父が君臨する組織だった。子供の頃は本家に住んでいたこともあり、仲の良い伯父さんや伯母さんから、よく組の現状を聞かされたものだった。若衆とは道場で一緒に学び、また彼等に戦い方を指導していた。
だが、母はその池袋組を、古いYAKUZA組織を嫌い、家を飛び出した。子供である菊二郎と香にはYAKUZAとは縁を切った一般市民として生きるように、と母は言っていた。カヲルが土方の特殊能力を調整するために道場に通うことは許されたが、組織と関わりを持つことは禁止されていた。
――でも、でもお母様! 私は……!
「池袋組は……」
カヲルがそう言いかけた時、烈が口を挟んだ。
「アネキ、池袋組は敵じゃないって。今回の敵は違法な麻薬密売組織だぜ? 池袋組は合法的な麻薬販売組織。これは区に認められている。小学校の頃、社会で習ったろ?」
そう言う烈に真琴は気まずそうな顔をして言った。
「えーと……習ったか?」
「……アネキ、社会を小学校からやり直せ」
「……う、うむ」
「相沢は違法な麻薬密売組織の被害者なんだよ。池袋組にとってはシマを荒らした無法者の毒牙にかかった可哀想な女子高生なわけ。そもそも池袋組は未成年に麻薬を売らないし、特区発行の麻薬購入許可証を持っていない一般市民にも売らないよ。購入許可証には購入履歴が記録されていて、過剰に麻薬を購入する事が出来なくなっているからね。相沢みたいなジャンキーにはならないってわけ。分かった? つか、これも授業でやった事だけど」
「う、うむ……とりあえず敵は池袋組ではないのだな。で、この乱戦の中、どうやって麻薬密売組織と池袋組の区別を付けるのだ?」
「そんなの簡単だよ、真琴。このビルに敵意を向けている奴、もしくは山崎裕紀を抱いているボクを狙う奴が敵さ」
「そうか、分かった」
真琴は武蔵にこくんと頷いた。それを聞いた烈が、普通は組員を示すバッチとかで区別するんだけどね、と突っ込みを入れた。
「や、や。待ちなさい、君達」
銃声が鳴り響く中を走り抜け、一人の壮年がビルの中に飛び込んできた。
紺色の背広と細い眼鏡。綺麗にまとめられた七、三分けの髪型。手には銀色のアタッシュケース。一見、銃撃戦が起きているこの場には合わないようなエリートサラリーマン風の者だった。壮年の跡から彼の雰囲気とはあまりにもかけ離れた、二メートル近い大男達が四人付いてきた。
「あっ、君達、壁役よろしく」
高度経済成長期のサラリーマンみたいな男が、後ろに立つ大男達に命令した。大男達はこくんと頷き、脇に持った鉄板で壁を作った。
「初めまして。私は斎藤守。弁護士をやっております。よろしく」
そう言うと斎藤と名乗った男は素早く、カヲル達に名刺を手渡した。
「君がカヲルさんだね。アリスの動画を見たよ。いやぁ、実物はさらに可愛い。写メ撮ってもいいかな?」
「おい、おっさん。カヲルさんに気安く近寄るな」
烈がすっと、カヲルの前に立ちはだかった。
「君は?」
斎藤の瞳がきらっと光る。
「近藤烈。カヲルさんの彼氏だ」
そう言う烈に、嘘を吐くな、とカヲル、真琴、武蔵からの突っ込みが入った。
「あはは、面白いね。近藤烈君か……ん? 近藤烈?」
そう言うと斎藤は烈の手を握り、ぶんぶんと振った。
「いやー、君があの全国模試トップの近藤君か。会いたかったよ。君、進路は法学部、もちろん法学部だよね? いやー、それ以外考えられないよね。法学部はいいぞ。そしてうちの……あっ、ほらここ、名刺に書かれた斎藤法律事務所っていうのは、うちの会社で、私が社長。よろしく」
「その弁護士のおっさんが何の用だよ」
烈はそっけない態度で名刺をポケットに入れた。
「うん、そうだよね。いやー、アリスのカヲルさんに初めて会えたからさ、お兄さん、ちょっと興奮しちゃったよ。安心していいよ。君達の味方だから」
そう斎藤は弁解した。
「アリスの事、知ってるのか?」
「そりゃあ知ってるよ。有名なメイド喫茶だろ。以前はメイド喫茶ランキングで二百位をうろちょろしていたけど、カヲルさんが入ってから全国トップに急上昇した名店。お兄さんも行ってみたいんだけど、仕事が忙しくて一度も行った事がないんだ」
「おっさん、メイド喫茶が好きなのか」
烈がにやっと笑った。
「うん。特にアリスは昔から注目してたよ。改めてよろしく、烈君。あと私の事はおっさんじゃなくてお兄さんと呼んでもらいたいな」
そう言うと、斎藤は烈と握手をした。烈はぐっと斎藤の手を握った。
「メイド喫茶好きに悪い奴はいねぇ。こいつは味方だ」
烈は振り向き、三人にそう言った。
――どういう判断基準だよ。ボクだったら肉体派弁護士なんて敵に回したくないから、さっさと仲良くなるけどな。この強そうな兄貴に喧嘩を売る烈に乾杯だ。
そう武蔵は思うと、やれやれと呟いた。
「それはそうと烈君、ちょっと虫を回収させてもらうよ」
そう言うと斎藤は屈み、烈の足元に付いている銀色の小さな虫を摘み上げた。
「なんだそれ」
「うん。発信機。どこかで付けられたみたい。不審な電波が感知されていたから、探していたんだ」
そう言うと斎藤は小さな虫型発信機を、小さな銀色の筒の中に入れた。
「さて、この階段にいる人達の発信機も回収させてもらわなきゃ。わおっ」
階段の踊り場まで登った斎藤は、上の階を見て驚いた。
「これを君達が? 凄いね~。二台程回収させて貰うかな」
斎藤は倒れている者達の腕から、腕時計を外し、アタッシュケースに入れた。
「回収終わり。さっ、後は警察にまかせましょう」
斎藤がそう言って階段に座ると、カヲルが心配そうな顔をして言った。
「でも、まだ外で闘っている方達がいますわ」
「ええ。でもカヲル様、大将は本陣でどーんと構えなければなりませんよ」
そう言って斎藤は口を押さえて笑った。
「いやいや、掲示板でカヲル様と呼ばれているから、つい口が滑ったよ。カヲル様って呼んでいいかな」
「えっ……その……」
カヲルが口篭っていると烈が口を出した。
「当たり前だ。新人は様付けだ」
烈はふふんと鼻を鳴らしながら胸を張った。
「警察だ。ちょっと失礼」
そう言って入口から、近藤剣一が大男達を掻き分け入ってきた。
「真琴、無事か?」
剣一は真琴の姿を見てほっとした。
「良かった。間に合ったか」
その時、階段に座った斎藤守に気付いた。
「……斎藤さん、いらしていたんですか」
剣一は斎藤守を警戒しながら見た。そして斎藤と真琴の間に立った。
「や、近藤警視、お久しぶりです。ご無沙汰してます」
斎藤は立ち上がりながらにっこりと笑い、右手を差し出した。
剣一はむっとしながら斎藤と握手をした。
「貴方が直接出てくるなんて、珍しいですね」
「おやっさんから言われましてね」
「……そうですか…………」
そう言って剣一は悲しそうな目をしてカヲルを見た。カヲルは剣一を見て、口の端を少し持ち上げた。
剣一は何も言わず、ただ俯いた。真琴が剣一の暗い表情を見て心配し、剣一叔父さん? と声を掛けた。
「剣ニイ、こいつと知り合いなの」
烈がそう言うと、剣一は烈の頭をぽかんと叩いた。
「烈、いつも年上の方には礼儀正しくしろと言っているだろう」
そう言ってから斎藤をちらりと見て、言った。
「あー、斎藤さんは有名な弁護士さんで、いろいろな企業の顧問弁護士をしていらっしゃる方だ」
「弁護士なのは知ってるよ。さっき、名刺を貰ったんだ。ふうん、一応有名なのか。俺は知らなかったけど。この兄さん、カヲルちゃんがいるアリスのファンなんだって」
「うん……まぁ……そうだろうな……」
「なんだよ剣ニイ、歯切れの悪い言い方をして」
「えーと、ほら、カヲルちゃんの所は有名だからさ。そういえば仕事をせねばならん。武蔵君。外の乱闘が終わったら応援がこっちにも来るからもう少しその子を守っていてやってくれ」
「わかりました」
武蔵の返事を聞き、剣一はこくんと頷いた。そして入口にいる大男達を見た。
「上の襲撃犯達に手錠をしてくるよ。うわっ、凄いな。これ真琴か? 武蔵君か?」
剣一はそう言いながら、階段を見上げた。
「残念な事にボクは参加出来ませんでしたよ。お姫様を守らなきゃならなかったンでね。真琴とカヲルさんです」
「そっか。真琴とカヲルちゃんか。人数はどのぐらい?」
「エレベーターの中に四人。三人が足を負傷してます……」
そう言って、カヲルははちらっと斎藤を見た。そして再び剣一に視線を戻した。
「あとは弁護士立ち会いのもと、お話します。それから階段には四十二人いました」
カヲルがそう言うと、剣一はエレベーターのボタンを押して、扉を開いた。
「誰もいないよ?」
カヲルははっとし、エレベーターの中を見た。
「いない」
「逃げられたな。怪我をしているから戦闘不能だと判断して、下にいた仲間が運んだのだろう。当事者がいないとちょっと面倒だが……」
剣一が頭を掻いた。
「近藤さん。カヲル様とそのお友達の弁護士は私がやりますよ。後で警視庁に出向きますから。さて、外が静かになったようだ」
斎藤が大男達に盾をしまうよう命令し、建物の外に出た。
「いやぁ、壮観だ。池袋組と警察がタッグを組んでの大捕物なんて滅多にありませんからね」
「出来れば警察に任せていただきたいね」
剣一がふんっと鼻を鳴らした。
「警視さん、警察は池袋組よりも到着が十分遅かったんですよ。もっと早く来ていただけると、お任せ出来るんですけどね。ん?」
そう言うと斎藤は小型のノートPCを開けた。
「カヲル様、ちょっといいですか」
「はい」
斎藤はカヲルにそっと話した。
「腕時計の電波から逆探知が出来たとデータから連絡が入りました。場所は中池袋公園周辺です」
そう言うと、斎藤は池袋の地図と、中池袋公園近くのアクセスポイントを見せた。
「分かりました」
カヲルはそう言うと、次の瞬間には走り始めていた。
「あっ、ちょっとカヲル様。私も!」
そう言う斎藤の声は、カヲルには届かなかった。
――見つける。絶対に見つける。
カヲルの記憶には細くなった相沢翼の腕が焼き付いていた。痩せこけた頬、骨のように細くなった指。へらへらと笑う緩んだ口元。麻薬の味を覚えこまされ、壊れかけた同級生。
池袋には確かに麻薬が存在した。大人達は麻薬を買う事も、愉しむ事も出来る。だがそれは大人に許された特権なのだ。池袋でIDを発行された者は、歓楽街で遊ぶ事が出来た。麻薬も、カジノも、女を買う事も、男を買う事も出来た。だがそれらは全て、管理下に置かれていた。過剰な麻薬の摂取、過剰なギャンブル、過剰な風俗通い。そういったものは全て出来なくなっていた。
カードには個人資産や、納税額も暗号で記入されており、資産に応じて、また昨年度の納税額に応じて遊べるようになっていた。資産や納税額の一定割合以上はカードの利用制限が発動された。また池袋特区内の合法麻薬は、回数制限と利用量制限が設けられていた。
ある休日に、ちょっと羽目を外すのはいい。だがのめり込むのは禁止。これが歓楽街池袋のルールなのだ。
また池袋は子供にとって安全な娯楽施設が多い都市としても有名だった。保育施設の充実と低価格化、そして漫画喫茶や、ゲームアミューズメント、巨大図書館を用意し、大人が遊んでいる間、子供も安全に遊べる商業地区として売り出しているのだ。
こうして池袋は世界中の観光客を集め、世界でトップレベルの観光都市へと発展した。
しかしこのような歓楽街になるまでには、大きな抗争も勃発していた。それは香達が生まれる前の事だと祖父は話してくれた。祖父は何度も暗殺されかけていた。だが祖父は生き残り、池袋を育てていった。麻薬取引の規制緩和と、新たなルール作りをした。歓楽街で遊ぶ人にもルールを提示した。
――世界中の人々が遊びに来て、楽しかったなと言われる街にしたいんじゃよ。
源はいつも香を膝に乗せながら、縁側に座ってそう言っていた。
カヲルは全速力で走りながら考えていた。私は何に怒っているのだろうと。
同級生を麻薬漬けにされたから?
池袋若草学園の生徒に手を出されたから?
それとも池袋というシマを荒らされたから?
生徒会役員だからなのか、源の孫だからなのだろうか。カヲルは真剣に考えていた。
無責任な正義感は持つなと、香は幼い頃から絵美の父・斎藤守に教わってきた。
だがカヲルは少女を助けた。目の前で殴られている少女・相沢翼を助けた。
それは小さな事件だった。だがその事件はカヲルの、いや、土方香の人生を変えた。
――私は護りたい! 真琴を、そしてこの池袋を!
カヲルは北口にあるニューウイロードを超え、中池袋公園へと辿り着いた。
――この周辺に、麻薬密売組織の指揮官がいる?
カヲルは息を切らしながら周りを見渡した。
「ここに敵が潜んでいるのか?」
その声に驚き、カヲルは振り返った。後ろには木刀を腰に刺した真琴が立っていた。
「真琴! ……様。危ないですから……どうか……」
カヲルは泣きそうな表情で真琴を見た。
「これは私達の問題だ。そうだろう? ……カヲルさん」
真琴に笑顔で微笑みかけられ、カヲルは頬を赤く染め、俯いた。カヲルの手を真琴がそっと握った。
「大丈夫。一緒に探そう」
真琴がそう言うと、カヲルはこくんと頷いた。
公園は柔らかい光に照らし出され、幾組かの親子と、子供達が遊んでいた。カヲルと真琴は不審な者がいるか公園を見渡した。
「いない?」
「……うむ。いるように見えないな」
公園にいる子供達は人形を見るようなきらきらした視線をカヲルに送った。
砂場で遊ぶ子供達、ベンチで世間話をする保護者達、滑り台で遊ぶ子供、ブランコに座ってDSをする子供、くるくると回る鉄の遊技台で遊ぶ子供、どの者達も平和で、のんびりとしており、公園は安らぎに包まれていた。
「きゃー、お人形さん、お人形さん」
幼稚園児ぐらいの幼児が、カヲルの周りに集まってきた。
カヲルはすっと腰を落とし、幼児に話しかけた。
「君達、この辺りで一人でパソコンをいじっている人を見かけなかった?」
子供達は顔を見合わせ、いた? いない? と話し合った。
「いなかったよ。ママやパパにも聞いてみるといいよ」
幼児はカヲルの手を引っ張って、母親の元へと行った。
「ママ、パパ、このお姉ちゃんがね、パソコンをいじってたヘンシツシャを見かけなかったかって」
その幼児の両親と、近くにいた保護者は、怪しい人は見かけませんでしたよ、と口を揃えて言った。
「そうですか。ありがとうございます」
カヲルと真琴は顔を見合わせた。
「どういう事かしら」
「もう移動したのだろうか?」
真琴にそう言われ、カヲルははっとし、公園の周りに駐車している車を調べた。だがどの車も誰も乗っておらず、車もエンジンをかけていた形跡がなかった。
「車で来て、この辺りに駐車して、遠隔指示を出していたのかしら」
「そういう可能性もあるな。あの公園でパソコンをいじっていたら、目立つだろう」
真琴はそう言って、明るく照らされた公園を見た。
「……そうね」
カヲルはきゅっと唇を噛んだ。
「カヲル様」
そこに斎藤守がぜいぜいと息を切らしながらやってきた。
「いやいや、お二人共足が速い。見失った時は焦りましたよ」
斎藤は両手にパソコンゲーム『月下の涙』に出てくるヒロイン・月影ほたるの絵柄が大きくプリントされたサブマシンガンを持っていた。
「そ、その銃は一体?」
「はっはっはっ、カヲル様。よくぞ聞いてくれました。娘からの誕生日プレゼントでしてね。特注品ですよ。池袋で銃を持ち歩く時は目立たないようにした方がいいといわれましてね。ほら、ミリオタっていうんですか? そういう銃マニアに見えるようにカモフラージュしてあるんですよ」
斎藤守は自慢そうにサブマシンガンを掲げた。公園の明るいライトに照らされ、月影ほたるはきらきらと輝いた。
――いや、絶対、カモフラージュになってないから!
カヲルは心の中でそう斎藤に突っ込んだ。
「カヲル様、公園の聞き込みはしましたか?」
「えぇ、普通の親子連ればかりで、パソコンを持っていた怪しい人もいないって言われました。その後、駐車している車も確認したのですけれど、それらしい人はいませんでした」
「うーん、逃げましたかね。私が見ても、怪しい人はいませんねぇ。でもあれだけ大量に兵隊を潰されたら、暫くは大人しくなるでしょう。お二人共、良くやりましたよ」
斎藤はカヲルと真琴の頭をぽんぽんと軽く叩いた後、はっとし、一歩下がった。
「し、失礼しました。カヲル様」
冷や汗を流す斎藤に、カヲルはにっこり笑って言った。
「お気になさらないでください。わたくしはただのメイドですから」
その時、真琴がカヲルと斎藤の間にすっと割り込んだ。
「斎藤さん、烈と武蔵はどうした?」
「警察に容疑者の少女をお渡ししたら、メイド喫茶アリスで落ち合おうと言ってきました。今頃、アリスに向かっている事でしょう」
「そうか、良かった」
ほっとする真琴に、斎藤が右手を差し出した。
「私は斎藤守です。改めてお名前を伺って宜しいですか?」
「私は近藤真琴。近藤烈の双子の姉だ」
そう言って、二人は握手した。
「……斎藤さん、何か武術を習っていらっしゃるのか?」
「ええ、護身術を少々。爺様に習いましてね」
「ほう。失礼して体を触らせて貰っても宜しいか?」
そう真琴が言うと、斎藤は体をくねらせた。
「いや~ん、真琴チャンのえっちぃ!」
「こ、これは失礼。なかなか良い体躯をお持ちだと感じたもので」
真琴は真っ赤になり、頭を下げた。
「いやなに、ちょっと齧った程度ですよ。さぁ、車も来た事だし、アリスに向かいましょう」
そう斎藤が言うと、三人の横に黒いレクサスが停まった。
メイド喫茶アリスに着いたカヲル達が黒いレクサスから降りると、店の前で待っていた烈達が駆け寄ってきた。
「カヲルさんもアネキも無事で良かった」
烈がほっとした表情をして言った。
「犯人は残念ながら取り逃がしてしまいました。皆さん、アリスでお茶をしていってください。お疲れでしょう」
そう言ってカヲルは喫茶アリスへの階段を下りて行った。
カランという柔らかい鐘の音が喫茶アリスの店内に響き渡る。
「ただいま戻りました」
店内には柔らかいバイオリンの音が響き渡っていた。そして美味しそうな紅茶の香りがカヲル達の鼻をくすぐった。
「おかえりなさい」
菊二郎がにっこりとカヲルに微笑んだ。真ん中のテーブルには祖父・源が座り、笑顔で迎えてくれた。
あぁ、アリスに帰ってきたのだと、カヲルは安心した。
カヲルは扉を開け、お帰りなさいませ、ご主人様。と言い、アリスに入店する真琴達にお辞儀をした。
「菊二郎さん、ただいま戻りました。そういえば香は上ですか?」
「真琴様、お帰りなさいませ。香は今、親戚の子の家庭教師をしてまして、出掛けております」
「そうですか」
真琴はそう言うと、ちらっとカヲルを見て、源の正面に座った。
「ただいまマスター。おっ、じいさん、来てたんだ」
「おう、坊主」
烈は今日は凄かったんだぜ、じいさんに見せたかった、と言いながら、源の隣に座った。
「バトラー、待たせたね。カヲルさんはこのボクがしっかりお守りしましたよ」
そう武藏が言いながら、カヲルの肩を抱き、ぎゅっと引き寄せた。
「はい、そこまで。武藏様、過度な触れ合いは御法度です」
菊二郎は武藏の手を優しくカヲルの体から離した。武藏は一瞬驚愕し、同時に真琴がばっと後ろを振り返った。
「失礼した。バトラー。でもボクは障害があればある程、燃えるンだ」
武藏は挑戦的な目で菊二郎を見て、ふふっと笑った。それから真琴の隣に座った。
真琴は小声で、今の空気はなんだ? 何があった? と武藏に言った。武藏は、さてね、と言い、手をおしぼりで拭きながらメニューを開いた。
「初めまして菊二郎さん。私は近藤剣一。真琴と烈の叔父です。いつも妹さんには真琴が世話になっております」
そう言いながら剣一がお辞儀をすると、菊二郎は、いえいえ、こちらこそ、とお辞儀をしながら言った。
本日も子供達がご心配をお掛けしまして、と剣一が言ったところで、源に気付いた。
「これはひじ……」
剣一がそう言った瞬間、斎藤守につんっと背中を突かれた。
「会長さんです。池袋町内会のね」
「ああ……そうですね。会長さん」
剣一が冷や汗をかきながら言った。
「おぉ、近藤君。先日は東京少年柔道剣道錬成大会で警察の方にはいろいろとお世話になりました」
「豊島区は剣道、柔道、共に一位でしたね。おめでとうございます」
そう、剣一は源に挨拶をすると、カウンターに座った。その隣に斎藤が座り、失礼しました、近藤さん、と言い、にっこりと笑った。
「カヲルさん、後はやるから座っていなさい。皆さん、注文はお決まりですか?」
「はい、バトラーさん」
カヲルはそう言うと、テーブルと椅子を動かし、真琴の隣に座った。
各々が紅茶を注文し、菊二郎が素早く淹れ、テーブルに運んだ。紅茶が蒸らし終わると、皆ゆっくりと味わった。
ダージリンを飲みながら真琴が大丈夫だったか? と烈に言った。
「ああ。あれからすぐに警察官が建物に雪崩れ込んできて、気を失っていた奴らは全員御用さ。裕紀ちゃんも渡して一件落着」
「結局、指示していた者は捕まりませんでした。アクセスポイント周辺には全く怪しい人がいなくて。逃げられたようです」
「残念でしたね、カヲルさん」
カヲルの報告を聞いて、烈が残念そうに言った。
「先程、剣一叔父さんが言ってたんですけど、結局麻薬密売組織の者は百名近くいたそうですよ。あのエレベーターにいた組織の者と、それを運んだ者を含めれば百名丁度いたんじゃないかって言ってました」
烈がダージリンを飲みながら言った。真琴は腰の木刀に手を当てた。
「木刀が二本は必要だったかな」
「そうだなぁ。乱闘にはやっぱり二刀流だよネ。ボクが二本持っているから、一本貸してあげれば良かったかな。真琴とカヲルさんがいれば制圧出来ない数じゃない。あっ、拳銃とかサブマシンガンを持ってるから話は別か」
「いや、あのさ、大通りで大勢に突っ込んでいく事より、路地とかに誘い出して少人数ずつヤルとか、少しは作戦を立てようよ」
「でもさ、烈。結局サブマシンガンとか出されたらやばかったと思うヨ?」
武蔵がそう言うと、烈はそうかと言って、唇を尖らせた。
「君達ね、そうやって大人の事件に首を突っ込まないの。今回助かったのは運みたいなものなんだからね」
剣一は椅子をくるりと回し、四人に言った。
「傷害事件を起こしたのはその未成年者だよ、剣ニイ」
「烈。事件を起こしたのが未成年者であっても、事件を解決するのは大人と決まっているんだ。それより学生の本分を思い出せ。お前、学校をサボっているんだってな。この間、担任の先生から手紙が来てたぞ」
「うへぇ、藪蛇だ」
烈が机に伏せると、カヲルがくすくすと笑った。
「大人の言う事は聞いておくもんじゃぞ、坊主。闘いは引き際が肝心じゃ。うむ。出来た」
そう源は言うと、高らかに詩の朗読を始めた。
キュン★キュン★ドキュン☆胸キュキュン☆
キュン★キュン★ドキュン☆あなたにキュン☆
ウサギが森に隠れてる カードの兵士が狙ってる
白きエンジェル 輝く剣 クイーンを探す旅に出る
光の速さでブーストラン 二人の手と手をつなぐとき
恋するハートがテラメテオ キラキラハニハニミラクルリン☆
悪い子なんていちころよ☆
スーパーラブリー・ファナティック・ロリータ 見参!
源が詩を読み終わると、菊二郎は微妙な表情をし、カヲルはきょとんとした表情をし、真琴は首を傾げ、武藏は瞳を閉じ、剣一は眉間に皺を寄せ視線をそっと源から逸らた。
「素晴らしい! 素晴らしいポエムです、会長」
斎藤は涙を流しながら、手を叩いた。
「じいさん、あんたは萌えの神髄を押さえているぜ」
烈が源に右手の親指を立てて、グッド! と合図を送った。
その様子を菊二郎と武藏と剣一が口元から漏れそうな溜息を我慢しながら見ていた。
「うむ。このポエムは真琴君に捧げよう」
「ありがとうございます。お爺さん」
難しい詩だったが、お爺さんの善意を受け取ろう、と真琴は思った。
「そろそろ行きますか、近藤さん」
そう言って斎藤が立った。
「皆さん、事件の事はこの斎藤におまかせください。カヲルさんと真琴さんに車中で詳しく伺いましたから、すぐに済みますよ」
「甘えてしまっていいのかな。ボクの家にもお抱え弁護士がいるけど」
「甘えてください。皆さん、カヲル様のお友達ですから料金とかいりませんよ。それに武蔵君も烈君も、メイド喫茶仲間じゃないですか。いつも掲示板で書き込みを拝見しております。真琴さんはカヲル様のお友達だという以前に、人間国宝みたいなものですからねぇ。車中でよくマスコミに取り上げられている剣道少女の近藤真琴さんだと伺って驚きましたよ。剣道の全国大会はまだリアルで見た事がないのですが、ネット動画で拝見しております。あの美しいフォルム。うっとりしますよねぇ。そんな皆さんを騙して法外な弁護士費用を請求したりしませんから、ご安心を」
「うんうん、メイド喫茶ファンは世界中で繋がっているからな。宜しく頼むぜ、斎藤さん」
そう言うと烈は立ち上がり、肘を曲げて胸の位置まで右手を上げ、斎藤と握手をした。
「まかせてください」
斎藤はにっと笑い、ぐっと手に力を込めた。
「烈……」
剣一は複雑そうな表情をして、烈を見つめていた。
「何? 剣ニイ」
「……いや、なんでもない。じゃあすいません、菊二郎さん、悪ガキ共を宜しくお願いします」
「はい、責任を持って送りますから、ご安心ください」
菊二郎はにっこりと笑い、小さくお辞儀をした。
「あっ、そうだ」
ドアの傍まで来ていた斎藤と剣一は、くるりと後ろを振り返り、同時に言った。
「カヲルさん、写メ撮ってもいいかな?」
その時、喫茶アリスの中に微妙な空気が流れた。
6
「うっわー、遅刻しちゃうよ」
土方香は三つ編みを結いながら、エレベーターを降りた。
「あら、香ちゃん、早いわね。行ってらっしゃい」
隣のビルにある千登利二号店の女将が、店の前を掃除しながら、香に声を掛けた。
「女将さん、行ってきます!」
香は兄のお下がりである学ランのボタンを締めながら、手を振った。
「今日は朝から生徒会役員会なのをすっかり忘れていた」
香は学校の門にIDカードを通し、門を開けた。学校のすぐ裏手にある香の家だが、生徒会室に行くまでは十分ぐらい時間がかかる。
「今日は麻薬密売組織の報告を……ととっ、私は知らない事になっているんだっけ」
真琴は報告出来るかなと、少しだけ不安になった。いざとなったら兄から聞いた事にして助言すればいいかと香は思った。
「遅いですわよ、メガネ君」
香が生徒会室に入ると、席に着いて資料を広げている韓麻理亜がキッと睨んだ。
「すいません」
香は前髪を整えながら、席に着いた。
「これで全員だな。諸君、おはよう」
エカテリーナが号令をかけると、役員全員がおはようございます、と返事をした。
「今日の議題は会計の最終報告だったが、昨日、麻薬密売組織の大捕り物があったと近藤真琴君から報告があったので、急遽そちらに変更する事にした。真琴君、報告を頼む」
「はい」
真琴は席を立って、ホワイトボードの前に立った。
「昨夜学校帰りに弟と知り合い二人に会った私は、サンシャイン通りへと向かいました。サンシャイン通りに入ってすぐに、私達は学生服姿の山崎裕紀、相沢翼が、タクと呼ばれる男性と一緒にいるのを見かけました。その時、いきなり山崎がタクを包丁で刺し、逃走。相沢が錯乱し、タクの体に刺さっていた包丁を抜きました。タクは救急車で病院に運ばれましたが亡くなってしまったそうです。
錯乱した相沢翼はタクと一緒に救急車で病院へと搬送、体内から薬物が検出されたと病院から連絡を受けました。そのまま相沢翼は薬物中毒医療センターへと回されたそうです。
私達四人は山崎裕紀の居場所を探し、知人の情報網を借り、北口にあるマンガ広場ネオ北口店に潜伏しているのを突き止めました。山崎の命は仲間を殺された麻薬密売組織に狙われていると仮定され、一刻を争いました。私達は山崎の身柄を確保し、麻薬密売組織の攻撃を受け流し、無事、警察に保護していただきました。この後、麻薬密売組織の電波発信機を逆探知し、リーダーの探索を行ないましたが、残念ながら発見には及びませんでした。報告は以上です」
「うむ。報告、ご苦労。真琴君と、学園には警察から功労賞が届くと校長から伺っている。真琴君、烈君は校外での乱闘に加わったが、それについては不問とすると、校長と、全日本剣道連盟から連絡が来た」
「そうですか」
真琴はほっとした表情をした。エカテリーナはちょっと不機嫌な顔をして、ステッキでコツコツと床を鳴らした。
「しかしだね、真琴君。たった四人で麻薬密売組織と乱闘するとは危ないにも程がある。次にこのような事がある場合は即、私に連絡したまえ。うちの警備員を応援に向かわせる事も出来る」
「全くですわ。韓グループの軍……いえ、警備員を出す事だって出来ますのに。心配しましてよ」
そう言った韓麻理亜に、真琴はちょっと驚きながら言った。
「……心配してくれたのですか」
「ば、馬鹿言わないでください! 別に貴女みたいな剣道バカを心配したわけじゃありませんわ! ……烈君。そう、烈君の心配をしたのですわ! 決して貴女の心配をしたわけじゃないのですからね! 誤解しないでくださいませ」
韓麻理亜は顔を真っ赤にして、ぷいっと真琴から顔を背けた。
「はっはっはっ、分かったかね、真琴君? 皆、心配したんだぞ。まぁ、何事も無くて良かった。これで未成年者に麻薬を売っていた組織は痛手を受けて、組織を立て直すのに時間がかかるだろうと警察では見ている。また気になる事を言っていたよ。麻薬密売組織の者全員の身分証明書が偽造されたものだったようだ。警察が各国に問い合わせてみたが、誰一人として国籍が確認出来た者はいなかったそうだよ」
エカテリーナがそう言うと、生徒会室に沈黙が流れた。
「それは『無国籍な子供達』ですの?」
韓麻理亜がエカテリーナに尋ねた。エカテリーナは窓の傍に立ち、言った。
「そうかもしれない。また違うかもしれない。とにかく無国籍な者を集めて兵隊として養成するだけの組織力はあったという事だ。ただのやんちゃな者が思い付きで起こした事件ではない。
この若草は、世界一とも言える歓楽街の中心地にある。大人達はルールを制定し、私達未成年者を守ってくれる。しかし我々が自らルールを破っていたら誰も止められない。だからこそ若草の生徒会役員である私達はさらに襟を正し、生徒達に注意喚起を行なっていかねばならん。若草の生徒はこれから池袋を支えていく人材として育っていく。我々は池袋のルールを学び、それを守り、街を発展させていく。
このような恥ずべき事件が二度と起きないよう、情報収集を怠らないようにしよう。
今日はここまで、解散」
エカテリーナが号令をかけると、皆、礼をし、荷物を片付け始めた。
香がふとエカテリーナを見ると、エカテリーナは厳しい目付きをしながら、空を見上げていた。その視線の先には、巨大なバベルが聳え立っていた。
白い扉の中には夢の世界が広がる。メイド喫茶アリスのベルが、カランカランと店内に鳴り響いた。
「お帰りなさいませ、ご主人さま。申し訳ありませんがまだ開店しておりません、もう暫くお待ちください」
入口で挨拶するエミリと夢莉とあいの間を縫って、厳ついパンチパーマの二人組が店内に入ってきた。
「ちょっとご免なさいよ、お嬢さん達。店主さんはいらっしゃるかな?」
カヲルはテーブルを拭きながら、入口を見た。菊二郎はにこにこしながら、レジの下から封筒を出した。
「あっ、太陽キャッシングの方ですか? お金は用意してありますよ」
「そうですか。なら話は早い」
背の高いパンチパーマの男は、菊二郎から封筒を受け取り、封筒の中の札を数えた。
「ひぃふぅみぃ……ニイさん、わしらを舐めてんのか?」
「はい?」
「こんなはした金じゃ足りねぇんだよ!」
そう言うと、背の高いパンチパーマの男はカウンターの椅子を薙ぎ倒した。
「今日までに九九八万九千円、きっちり返して貰う約束だろうが! あぁ !?」
背の高いパンチパーマの男はあいの肩を抱き、舌をべろりと出した。
「いいんですぜ? この可愛いメイドさんを風呂に沈めてやっても……ぐふぉ!」
その瞬間、アリスの扉が開き、店内を風が吹き荒れた。目にも止まらぬ速さで背の高いパンチパーマの男は吹き飛ばされ、壁に激突した。壁に掛けてある絵画が、男の頭上に落下する。
「はーい、はいはい。メイドさんには手を出さないでくださいね~。大丈夫だったかしら? お嬢ちゃん」
あいの小さな体はいつの間にか、スレンダーな美女の腕の中に収まっていた。きらきらと光る大きな黒い瞳と、妖艶な赤い唇があいの顔のすぐ傍に迫っていた。
「は、はい……」
あいは顔を真っ赤にし、突然現れた妖艶な美女に魅入った。甘い吐息があいの鼻を優しくくすぐる。
「そう、良かった」
あいを椅子に座らせると、美女は、彼女にのされ、ぐったりと横たわっている背の高いパンチパーマの男の股間をハイヒールで踏み付けた。
「あンた、うちのメイドに手を出して、生きて帰れると思ってないでしょうね?」
赤いピンヒールがぐっと、男の股間に沈んでいく。
「ぐわっ! ちょっと待って下さい、七海様、土方七海様でしょう? わしです! バベルのカジノで会ったホビットファイナンスの金田です! 昨日、お纏めローンをご利用頂き……あひぃ!」
「ホビットファイナンス……」
七海は天井を見ながら考え、眉を寄せた。そして考えながら、赤いハイヒールの底で、ぐりぐりと男のデリケートな所を踏みつけた。
「あっ……! あっ……! そうで……す……お纏めローンをご利用頂きまして……はぁん……本日返金して頂けると……あン!」
「あ~、思い出したわ!」
そう言って七海は、ぱんと手を叩き、足をくりくりくりっと動かし、下を見た。その七海の足の下で、男は「気持ちいい~」と言って果て、びくっ、びくっと体を震わせた。
「もう、だらしないわね。ほら、昨日、ミリオンゴットバベルバージョンで出した一千万で、きっちり返してあげるわよ」
七海は鞄の中から札束を取り出し、一つ一つ男の体の上に落していった。
「……九……十っと。これでいいわね。あっ、そうだ」
そう言って七海は一束拾い上げた。
「うちの可愛いメイドちゃんへの慰謝料を貰っておくわよ。ほら、恥ずかしい格好してないで、さっさとお帰り!」
もう一人の背の低いパンチパーマの男は、札束を鞄の中に入れ、借用書をテーブルの上に置くと、股間を押さえている背の高い仲間を引っ張りながら、またのご利用をお待ちしております、と言って店を出た。
菊二郎は体を震わせながら、七海に向かってお辞儀をした。
「オーナー、お帰りなさいませ」
「なーに、涙浮かべてんのよ、菊ちゃん。店長なんだから、しっかりしなさい。この娘達が新しいメイドね」
「あいです」
「もんれいです」
「……カヲルです」
七海はよろしくね、と言いながらあいと夢莉の肩を叩き、カヲルの前で止まった。
「そう、貴女がカヲルなの。噂は聞いているわ」
そう言うと、七海はカヲルの両手をぎゅっと握った。
「私は私の選んだ道を歩んでいるわ。貴女は貴女が選んだ道をお行きなさい。そして苦しい事があったらいつでも私を頼って。貴女をいつでも見つめているから」
七海がそう言うと、カヲルはこくんと頷いた。
「さっ、挨拶は終わったわね。じゃあ、菊二郎、後はよろしく」
「えっ? もう行ってしまうのですか?」
「えぇ、一時間休憩の間だからね。『バベルジャグラー』が私を待っているのよ~」
そう言うと、七海はレジの横に置いてあった封筒をさっと持ち、風のように店を出ていった。
「あっ、あれ? ちょっと、ちょっとお母様! 待って! それ持って行かないで!」
菊二郎が七海を追いかけてドアを開け、道路を見渡した時、もう既に赤いピンヒールを履いた美女の姿は消えていた。
斎藤宅。
絵美の自室には何枚ものモニターがあった。モニターは連動し、どこかにある二つの部屋を巨大な二枚の絵として映し出していた。
「香様、ご覧ください。山崎裕紀の取り調べが行なわれます」
「左側のモニターは?」
「薬物中毒医療センターに入院している、相沢翼の独房です」
「そうか」
右側のモニターには斜め前から撮った山崎の顔が映し出されていた。
左側のモニターには斜め上から撮った相沢の顔が映し出されていた。
「はい。刑事さん。あの男を刺したのは私です。一ヶ月前ぐらいでしょうか。翼が彼の話をするようになったのは」
「出せ! ここから出せ!」
「最初、翼は彼に会った事を興奮しながらよく話してくれました。自分の事を分かってくれるのは彼しかいないって、翼は言ってました。私がどう思ったのかって? そうですね、幼い頃から彼女とはずっと友達だったんです。私は彼女が好きで……きっと彼女も私の事が好きなんだろうと思っていました」
「こんな所にわたいを押し込んで……裕紀だね? さては裕紀がわたいとタ、タクを引き離そうとしてこんな所に入れているんだね?」
「でも彼女は私に、自分を理解してくれるのは彼しかいないって言いました。たった一ヶ月前に出会ったばかりの男なのに、翼は私よりも彼の事を信用しているようでした」
「雌豚が! 早く出せ! わたいをここから出せ!」
「今、思えばそれも麻薬による幻覚だったのかもしれません。ううん、そう思いたかったんです。翼が彼の事を信用しているのは、薬のせいだと。だって現にあの男は、翼に暴力を振るったじゃないですか。翼は子供の頃からお母さんによく叱られていたみたいで、暴力が嫌いなんです。そんな翼にあの男は暴力を振るったんです。許せないですよね」
「タク……タクは? ねぇ、タクに合わせてよ! 糞女! 売女! わたいをこんな……こん、こん、こんな白い部屋にイレやがって! 許さない! 絶対に許さないから!」
「でも翼はあの男と別れられないみたいでした。きっと薬のせいだろうと私は思いました」
「タク……助けてよ……タク……」
「薬の事ですか? 私は翼が薬を飲んでいるのを見た事がありません。飴ですか? そうですね、翼はよく飴を舐めていました。え? あの飴がそうだったんですか? ……知りませんでした」
「喉が乾いた……飴を……わたいのポーチに入っている飴を頂戴」
「翼はほんの一ヶ月ぐらいでみるみる痩せていきました。でもよく質問したり、前より積極的になったと思います。私は彼のせいじゃなくて、薬のせいだと思いました。積極的になったのは良かったと思ったのですが、翼の痩せ方は尋常ではありませんでした。頬が痩けて、目が窪んで……でも翼は、自分は痩せて美しくなったと言ってました。私は翼がいつか死んでしまうのではないかと思って……思って……思って…………あいつを殺してやろうと決意したんです」
「あの飴を舐めると、なんでも出来るって、なんテもやれるって思えるのよ……それにほら、こんなにヤセ、やせ、痩せた! あはははは、わたいは雑誌のモデルみたいよ! それなのに裕紀は嫉妬して……醜い女。最低な女。タクをあんな目に遭わせて……ころ、ころ、こ、殺してやる……」
「翼はいつも努力していて、とても頑張り屋さんで可愛い娘なんです。お母さんもお父さんも厳しくて、でもその期待に応えようと、いつも勉強してました。私も彼女と一緒に勉強してきたから、今の成績がキープ出来ているんだと思います」
「裕紀はいつも私の真似ばかりして……今回のテストだって、きっと私の解答をカンニングしたのよ! 私の頭の中を覗いたのよ! きっとそう! じゃなかったら、あんな冴えない子が私より点数が良いはずがないじゃない!」
「そんな翼に、元々薬なんていらなかったんです。彼女は薬なんてなくてもよく出来る娘なんです。それなのにあの男は、翼の……私達の生活全てを壊していったんです」
「飴が……飴が欲しい……飴を舐めると世界がくるくる回るのよ。そこではわたいが女王様なの……飴がないと、世界が壊れてしまうの……」
「私は生まれて初めて人が憎いと思いました。殺意を覚えたのもこれが最初です。私と翼は、私達はいつも一緒に生きてきたんです。お昼ご飯を食べる時も、トイレも、自習も、夜、ネットワークゲームで遊ぶ時だって。私達はいつも一緒で……そう、私は翼を愛しているんです。そして翼も……あの男が現れるまで……私の事を愛してくれていたんです……多分」
「裕紀は私の真似ばっかり! とうとう飴も欲しがり始めた。きっとタクも欲しがるんだわ! だから金だけ払わせて捨ててやろうと思ったのよ。いつもくっついてきて、私の邪魔ばかりする! お弁当だって、裕紀は私のお弁当と比べようとする。トイレにだって、私が長居しないか見張っている。ネットワークゲームでだって、いつも宝箱を横取りする!」
「私は……とても彼女が好きなんです」
「裕紀なんて大嫌いよ!」
「とても」
「死ね!」
「とても」
「死ね!」
「とても……」
「死ねぇー !!」
ぽたりっというズボンに落ちる水滴の音で、香は自分の頬に涙が流れているのに気付いた。彼女は右手で涙を拭きながら、何故泣いているのだろうと思った。この映像を観て泣く自分自身の心が彼女にはよく分からなかった。
そして香はモニターから目を離し、もういいわ、と呟いた。絵美は悲しそうに眉を寄せ、香の顔をじっと見つめながら、はい、と答えた。
全モニターの表示が、ぷつんという音と共に消えた。
香と絵美は、暗くなったモニターを暫くの間、見つめ続けていた。
7
日曜日。
朝早くから土方香は巨大なおにぎりを握っていた。梅干しが二つ入っているおにぎり、茹でられ一センチ四方に切られた肉厚の日高昆布が入っているおにぎり、ちょっと黒い汁が滴っている金笛醤油おにぎり、ししゃもの頭としっぽが出ているおにぎりなど、香にとっては「ちょっと贅沢しちゃったかな?」と思われるものばかりだった。
「出来た」
香は満足そうにおにぎりをラップで包み、ビニール袋に入れた。それをリュックに入れて、背負う。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
欠伸をしながら兄・菊二郎が見送ってくれた。それも香にとってはラッキーな出来事だった。きっと今日は良い事が起きると、香は思った。
バベルの中にある赤いポストの前で香と真琴は待ち合わせをしていた。
「早く、早く、香!」
「遅れてごめん!」
香は真琴に引っ張られながら、有楽町線のホームへと駆け降りていった。
「大丈夫だ、香。まだ間に合うぞ」
二人は手を繋いだまま、電車に飛び乗った。
電車に乗ってから、真琴はじっと香の手を見つめた。
「……どうしたの? 真琴」
「う、うむ……いや、なんでもない」
そう言いながら真琴は香の手をそっと握ったまま、手を下した。
――真琴。
香は少し赤面し、俯いた。電車は手を繋いだ二人の少女を乗せながら、暗いトンネルの中を静かに走っていた。
――このまま、手を放したくないな。
そう香は思った。日本で最強の剣道少女・真琴。その強さ、そして美しさはお茶の間を沸かせ、人々を魅了していた。
――自分が釣り合わない事ぐらい、私だって分かっている。……でも……。
香がそう思った時、電車は飯田橋に着き、二人の手と手は離れた。
「全日本剣道選手権大会」の選手達が、日本武道館に集まっていた。数年前に男女混合になった全日本剣道選手権大会だが、それはまさに近藤真琴という一人の天才剣道少女の誕生によって変わったと言っても過言ではない。会場には『近藤真琴様、頑張れ!』という応援幕や、『鬼龍院武蔵 優勝』という応援幕が掲げられていた。
――やっぱり武蔵君って有名人なんだ。
香は今まで自分は何故、彼の存在に気付かなかったのだろうと、首を傾げた。
「では香、行ってくる」
「頑張って、真琴。応援しているよ」
そう香が言うと真琴がにっこり微笑み、何かを言おうとした。
「なに?」
「いや……その……なんでもないのだ。優勝してくるぞ」
そう言って右腕を振り上げ控え室へと向かう真琴を、香は見送った。
「なんだろう? 何か言いたそうだったけど……」
香は真琴の行動を不思議に思いながら、観客席へと向かった。
「メガネちゃん、こっちこっち」
「烈、珍しく早いじゃん」
香は烈に呼ばれ、真琴が良く見える応援席に座った。
「ダチの家に泊まったからさ。アネキ用の作戦を立ててたんだ」
「ダチって誰よ?」
香は知らない振りをして、烈に聞いた。
「ほら、いつもアネキと決勝で闘っている鬼龍院武藏ってやつ」
「全く、真琴が負けるための作戦を立てるなんて信じられない!」
「まぁ、そう言うなって。不敗神話っていうのは破るためにあるのさ。あっ、剣ニイと武藏の試合だ」
「この間、遊びに行った時に会った叔父さんだっけ」
「剣ニイ、強いんだぜ。武藏の方が強いけどな。むっ、今回は少し押され……あっ! 入った。なっ? 武藏が勝ったろ?」
「ふうん、本当だ。二人とも強いね」
香はいつしか隣に烈がいる事を忘れ、剣道の試合を夢中になって観ていた。
真琴と武蔵は全国の強豪を次々と破り、決勝戦へと進んだ。
「ここまでは予定通りだ。さて、今回は勝たせてもらうぜ、アネキ」
「絶対、真琴が勝つから」
それはどうかな? と言いながらにやにやと笑う烈に少しむっとしながら、香はぐっと拳を握った。
――真琴と武蔵君って、身長差があんなにあるんだ。気付かなかった。
真琴と武蔵の身長差は二十センチ以上あった。真琴は微動だにせず、武蔵はゆらゆらと切先を揺らしていた。
――がんばれ、真琴!
香は少し前のめりになって、応援に集中した。
――私なら、どうやって武蔵君を打つ?
香は自分と真琴の姿を重ねた。訓練された真琴の体に自分を重ねるのは気持ちが良かった。張りつめた空気。静かな真琴の心。
その時、香は自分を見つめる武蔵の熱い視線に気付いた。
――えっ?
「はっ!」
「やぁ!」
真琴と武蔵の、場内に居る者全てを貫くような掛け声が、日本武道館に響き渡った。
会場内に響くびしっ! という竹刀の音と共に、真琴を指す白い旗が審判から上げられ、観客がざわめいた。
「豊島区 近藤真琴」
真琴と武蔵は礼をした。それから武蔵は真琴の傍に近寄り、小声で何かを話した。
――何を話しているのかな。
観客席に座る香と剣一の前に、面を外した真琴と武蔵が帰って来た。
「カヲルさん!」
そう言って近付いてくる武蔵に香は驚き、目を逸らした。
真琴は武蔵の口を押さえ、後ろへと武蔵を引っ張った。
「いつ気付いた?」
「そりゃあ、試合中のボクを見る愛しい殺気でね。あんな麗しい殺気を出す人間がこの世に何人もいたら困るヨ」
「ふん。相変わらず勘が良いな。うちの学校はバイト禁止なんだ。香がバイトしているのを知らないふりをしてやってくれ。香は私にも話していないのだ」
「成程、そういうことか。OKOK。じゃあ紹介してくれよ。あの愛しのメガネちゃんを」
武蔵がにっと笑って真琴を見た。真琴は紹介だけだぞ、と言った。
「香、紹介した事がなかったな。こちらは鬼龍院武蔵。今試合していた対戦相手だよ。武蔵、こちらは土方香。私の……」
そう言って、真琴は少し口篭った。
「私の親友だ。ほら、紹介したぞ。とっとと控え室に帰れ」
「いやいや、土方香さん、初めまして、鬼龍院武蔵と申します。以後、お見知りおきを」
そう言うと武蔵は香の手を取り、そっとキスをした。
「いやぁー !! 武蔵様!」
会場内は黄色い怒号に包まれ、かつてない程の殺気を香はその身に感じた。
烈はぴくりと眉を動かしたが、すぐにおどけたような表情になり、はぁ? と言いながら両方の掌を上に向け、首を傾げた。
真琴は武蔵の襟を掴んで後ろに引っ張り、小声で凄んだ。
「香に手を出すな」
武蔵はにやりと笑って言った。
「ボク達、ライバルだろ?」
火花を散らす真琴と武藏を見ながら、香はくすくすと笑い、おかしな二人、と言った。
<終わり>
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